Journal of Political Economy & Economic History

『歴史と経済』


日本語要旨(190-199号)

- 220-229号- 210-219号 -200-209号
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199号(第50巻3号)
2008年4月
橋口卓也「農業・農村政策の動向と地域対応−わが国の条件不利地域を主に−」

 2005年センサスの最も基礎的な数値として注目される、農家戸数と農家の経営耕地面積の動向からは、農家の危機は深化していると言える。農家戸数の減少率には歯止めがかかったように見えるが、経営耕地面積減少率は拡大が続いているのである。その中で、農業地域類型区分別に見れば、いわば平地農業地域の弱体化と山間農業地域の健闘という事態がうかがえる。その背景には、2000年度から実施された中山間地域等直接支払制度の効果を挙げることができる。それは、現在、都市部も含めて集落やコミュニティが地域再生の切り札として注目される中で、先行的に導入された政策であると位置づけられる。特に、1期5年とする同制度の第2期目の制度改定にあたっては、集落活性化補助金としての性格が強化された。他にも、農業・農村をめぐっては、多くの新しい政策が導入されつつある。このように集落が政策的に位置づけられ期待される一方で、その機能の脆弱化が進行していることも危惧されている。その究極の姿としての限界集落や消滅集落の問題も注目を集めている。以上のような現在の農業・農村の現状や政策の動向を確認した上で、消滅集落を多数抱える新潟県糸魚川市根知地区の事例を検討した。そこでは、現在展開している複数の政策をうまく組み合わせて積極的に活用するとともに、新たな農地管理主体も生まれてきている。その結果、困難を抱えていた地区が、農業・農村政策の優良事例として急浮上しつつあるというのが実態であった。ただし、多くの補助金が投入されているのも事実であり、そこには地域への支援という性格と、行政側の危機感の反映という2つの意味合いが含められている。また、このような事例がどこまで一般性を持つのかという観点も重要である。このような点にも注意を払いつつ、今後の全国の地域の動きを注視していくことが必要であろう。
松本武祝「韓国における農業水利組織の改編過程―公共性と協同の相克―」

韓国での潅漑組織は慣習的なものと制度化されたものによって構成されている。農地改良組合(1970〜2000年)が後者に該当し、政府によって強く制御された半官製的で官僚制にもとづくシステムは植民地時代からの継承と見なすことができる。
1980年代末、農民は、農地改良組合の組合費支払を拒否する運動を展開した。農民は、1980年代の農産物市場開放政策に伴う農産物価格下落に苦しんでいた。また、植民地支配の残滓としての農地改良組合を解体することを要求した。結局、1989年に、組合長と代議員の直接選挙制度が導入され、組合費は大幅に引き下げられた。
公共部門の民営化は、1997年の財政危機の後に実行された構造調整プログラムの基本原理であった。しかし、農林部は、日帝支配の残滓としての農地改良組合と組合費は廃止すべきであるとする農民組合の意見を引き合いに出しつつ、2000年に、農地改良組合を統合して水利事業のための巨大な公社を設立することに成功している。その意見が、国民の反植民地主義感情に訴えかけることで、正統で説得力があるものとして韓国の人々に広く受け入れられたことによって、農林部はマヌーバリングに成功したのである。この過程で、水利組合費は完全に撤廃された。
慣習的な水利組織の領域では、農民が水路の維持管理のために自発的に協同作業を行う。農地改良組合の場合は、幹線水路の維持管理は組合職員が直接行うが、末端水路は農民の協同作業によって行われた。しかし、組合費の低減・撤廃は協同作業に参加する農民のインセンティブを弱めた。農地改良組合と新公社は、水利維持管理のための追加経費を負担せざるを得なかった。その追加支出は、政府の補助によってまかなわれた。
日本による植民地支配を受けたという歴史的な経験のために、韓国人は植民地支配の残滓を清算するということに優先順位を与える傾向がある。ただし、潅漑組織の組織管理に関する限り、組合費撤廃は合理的な手法ではなかった。
新公社は、農民を動員するために新たなプログラムを開始した。それは、維持管理コストを軽減するために、財政支援を行なって、末端水路の維持管理のための農民の協同グループを組織化しようとするものである。
市田知子「EU農村地域振興の展開と「地域」―ドイツのLEADERプログラムを中心に―」

本稿ではEU地域振興政策の一つであるLEADERプログラムをとりあげた。LEADERがそれまでEUでとられていた農村地域振興と大きく異なるのは、地域住民がプログラムの設計段階から参加する点、トップダウンではなくボトムアップの手法がとられている点である。LEADERプログラム開始から15年が経過した現在、政策評価だけでなく、その手法を「新しい内発的農村振興」として、すなわち地域の部外者の果たす様々な役割や、人口10万人規模の「領域化」の意義を評価する動きもある。本稿では、主に筆者が2004年にドイツで行った二つの調査事例に基づき、プログラムの実施主体である地域住民(LAG: Local Action Group)の実態、活動内容、EUや州政府などの公的部門との関係について分析を行い、LEADERによって新たに措定される「地域」とは何かを考察した。LEADERプログラムは農村地域振興の主たる手段の一つとなった。LAGは、EU、国、州等の公的機関から予算措置を受け、かつ1〜10万人規模という「地域」の範囲を措定、領域化しなければならないという介入をも受けている。そうした介入の効果としては、LEADERプログラムを契機に「地域」が埋もれていた人材を発掘し、様々な場面に参加するチャンスを与えること、それによって「地域」が外部に知られ、それが「地域」のアイデンティティや誇りにつながっていることがある。逆に問題点は、とくにLEADER+以降、LAGの審査、選考に手間取るようになっていること、LAGのプロジェクト実施手続きが煩雑すぎることである。ボトムアップであることと、公的な財政支援の対象であるというLEADERのもつ2つの側面が矛盾している。地域マネジャーはLEADERの2つの側面の矛盾を解消する役割を果たしている。日本について新たに措定される「地域」の意味を考察すると、新自由主義的行財政改革のなかで現在、地方中小都市とその周辺地域の低迷、大都市部との格差拡大が問題になっている。LEADERやLAGの活動は、地方の生活圏再構築の一つのヒントを与えるのではないか。
田中夏子「イタリア地域社会における「公共性」の創出と課題 −社会的協同組合を軸として− 」

イタリアではEU統合の流れに沿って、一方でグローバル下での「規制緩和」や「自由化」に「適応」をしつつ、他方ではそうしたあり方を規制(再規制)あるいは再構成しながら、新自由主義的な社会展開に一定の歯止めをかける「地域社会の耐久力」があり、それを担うものとして非営利・協同セクターが存在する。そうした仮定のもと、その具体的事例として、社会的協同組合及びその連合体としてのコンソーシアムがどのようにして、「対抗軸」を形成しうるのか、またその困難や課題とは何かに言及した。
たとえば、失業問題へのアプローチとして「社会的排除との闘い」という目的を掲げつつも、かたや新自由主義と親和的な、訓練への強制的動員や短期間での「再商品化」といった「積極的労働市場論」が存在するのに対し、社会的協同組合およびコンソーシアムは、1970年代前後から蓄積してきた「労働を通じた社会参加」の経験を共有し、行政はもとより企業への働きかけも伴いながら、独自の社会参加のアプローチを拡充している。
こうしたことが可能となる根拠として、筆者は、社会的協同組合が内包している三つの複合的なアイデンティティ、すなわちアソシエイティヴな社会運動組織としての側面、市場の論理に一定の適応をしつつそこに新しいルールをも提示していく経済組織としての側面、そして自らの実践的な蓄積に対して社会的認知を得、公共団体との協働を拡充する公共性の担い手としての側面が存在していることを、第一点目として重視した。
また第二に重視したのが、地域社会において困難を抱える当事者を中心として事業内容を高度化し、その効果を地域社会の内外で共有する仕組み、すなわちコンソーシアムである。政党系列による拘束を極力解消しながら、まず地域社会の必要性に応答すること、またそれを集団的に開拓していくことが、非営利・協同事業組織が、経営体としても成立し、また公共の担い手としても存在感を発揮できるための前提と考えた。
198号(第50巻2号)
2008年1月
河村徳士「復興期日本の貨物自動車運送事業」

本稿では、復興期における貨物自動車運送事業(=トラック輸送業)の統制団体である全国貨物自動車運送事業組合連合会(以下、全貨連)の活動を、資源配分面における統制と市場の関係に留意しながら考察する。
 戦後、軍部から流出した貨物自動車の一部は自家用車として登録され、それらが闇営業に利用された。政府は、1946年3月に国営事業である省営自動車事業を拡張し、闇運賃是正および輸送力増を図った。民間営業者を中心に組織された全貨連は、この政策が民業を圧迫する面もあったことから反対運動を展開し、一部の政策は中止となった。一方、この頃、GHQは進駐用に用いたトラックトレーラーを日本政府に払下げることとし、これを受けた日本政府は46年8月に払下車を国営で運用する案を計画した。全貨連は、日本政府の払下車利用案および省営自動車事業それ自体に対する反対運動を展開し、47年3月に払下車の民間利用、省営自動車事業の抑制を実現した。以上の全貨連のロビー活動は、戦後増加した貨物自動車の配分をいかに受けるかという戦時とは異なる条件を反映したものであった。
次に、燃料、タイヤおよび新車の配給規則と、それらの実際の獲得活動を運送会社の事例も交えて考察した。燃料の配給規則は、政策的に重要な積荷とリンクさせるもので、こうした調整は統制団体を介して行われた。もっとも、運送会社は闇市場利用など配給外の手段で燃料確保を行う側面もあった。タイヤについては、闇市場がより多く利用された。こうした闇市場利用は運送会社の経費を押し上げ、新車購入時の資金難を生じさせた。そのため、新車は早期に自由販売が部分的に開始されたこともあり、自家用車増を招く面があった。これらの資源配分において、統制が部分的にしか作用していなかったことが重要であろう。
 最後に、以上の分析から得られた諸点をまとめ、復興期の条件が産業構造の変化の方向にどのような影響を与えたのかを区間事業化を取り上げ展望した。区間事業化は、闇営業、省営自動車、自家用車増などの競争者の到来や、闇市場利用による経費上昇といった復興期に生じた条件を克服するための運送会社の対応であった。これは、必ずしも統制の枠内で有利な条件を得ようとするものではない点で今後の検討において重要なものである。
森 宜人「広域発電網確立期における都市電力業−ヴァイマル期フランクフルト・アム・マインを中心に−」

本稿の課題は、フランクフルトを事例として、広域発電システムの確立期であるヴァイマル期に都市発電システムがどのようにして持続性を保持しえたのかを解明することである。これにより、これまでもっぱら広域発電システムの確立期として捉えられてきたヴァイマル期ドイツ電力業の歴史に対して、都市発電システムの持続というもう1つの視点を補完することを試みる。
 ヴァイマル期は広域発電システムが急速に発達した時期であり、多くの都市が広域発電企業の傘下に組み入れられたが、都市への電力供給の主体が完全に広域発電企業にシフトしたわけではない。それは、大都市を中心とする都市自治体が広域発電企業の地域独占に抗して電力業の自律性確保につとめたためである。フランクフルトはそのような事例の1つである。
フランクフルトは、同市への進出を目論むライン・ヴェストファーレン電力株式会社(RWE)から電力業の自律性を守るために、市営発電所の拡張や、市近郊の褐炭や水力の利用など様々な可能性を模索した。これら複数のプロジェクトを通じて形成された電力供給構造は、所期の目的通り自律的な電力業経営を可能にするものであり、世紀後半にいたるまで市内の電力消費を支える基盤として機能し続けたのである。
 だが、これはフランクフルト単独の力で実現できたものではなく、特にプロイセン政府所有のプロイセンエレクトラの助力に負うところが大きかった。プロイセン政府は、RWEによる供給圏拡張を掣肘するとともに、ライン・マイン地域における電力業統合の推進とザール地区の経済振興をはかるために、フランクフルトとの関係を強化する必要があった。フランクフルトにおける自律的な電力業の存続はこのようなプロイセン政府の電力業戦略に大きく規定されたものだったのである。
布田功治「タイ金融構造分析−重化学工業化から通貨危機へ−」

アジア通貨危機をもたらした原因をめぐっては内因説と外因説との対立を軸として多数の文献が存在するが、それらの多くには自らの主張する政策対応の正当性を証明するための結論ありきの原因分析であるという限界がある。そこで本稿では政策対応の適否を離れて、国際的な短期資金のあり方とタイの国内金融構造がどのようなリンケージを持ち、経済のバブル化から通貨危機に至るまでの過程をもたらしたのかという実態を解明することを主要課題として、通貨危機の根源的原因を分析した。
本稿の主要な分析結果は以下の3点である。第1に、海外短期資金流入における主要な資金調達・運用経路を比較検討することで、不動産バブルの主要因は、非居住者バーツ建て預金を経由した海外投資家の投機的行動や地場商業銀行との系列関係を背景とするFCの投機的行動であったことを解明した。第2に、急激かつ莫大な海外短期資金流入が、バブルをもたらす一方で重化学工業化を確実に進展させたこと、ならびに、国内金融市場の急激な変化をもたらしたことを示し、中央銀行が海外資金流入や金融機関の貸出行動に関して迅速かつ厳しい引締め政策を行い難かった理由を明らかにした。以上のような経緯を辿った結果、バブルが崩壊した場合には金融機関が膨大な不良債権を抱えるとともに、海外短期資金が急激かつ莫大に海外流出することで流動性危機となる金融構造に陥ってしまったことこそが、通貨危機の根源的原因であったという主張を提示した。第3に、通貨危機が深刻なものとして現れた主要原因のひとつは、中央銀行内部で意思疎通が低下していたので、バブル崩壊後に国際金融市場の情勢を踏まえた外国為替レート政策が実施されなかったためであったことを明らかにした。
以上の分析結果を通して、国際的要因やそれまでの局面の経路依存性に大きく規定・翻弄されつつ、それらに対する国内の各経済主体の反応こそが各局面において重要な役割を果たしていたことを浮き彫りにした。
三ツ石郁夫「戦後ドイツの経済発展をめぐるアーベルスハウザー・テーゼの現代的意義」
197号(第50巻1号)
2007年10月
平沢照雄「1930年代日本における中小工業統制と産業協力活動−電球硝子工業の事例−」

本稿は電球硝子工業を事例として、1930年代日本における中小工業統制と産業協力運動の展開と両者の関係を考察することを目的とする。
そこでまず第1に、本稿では事業者団体による労働組合の公認と両者の間で結ばれた団体協約について取り上げ、(1)事業者団体(東京バルブ会)は労働組合(関東電球硝子産業労働組合)設立当初その公認に消極的だったこと、(2)これに対して東京電気の余剰バルブ外販問題への対応と、丸佐工場における労働争議への取組みを契機として労使間に協調機運が醸成され、組合の公認、団体協約の締結が現実化したことを明らかにした。第2に、電球硝子工業では団体協約の締結後、労使双方が参加して産業協力委員会が設立され、産業協力活動が展開された点を考察する。特に本稿では、同委員会の活動によって(1)傷病手当、死亡保険、退職手当を柱とする共済制度が新設されるに至ったこと、(2)全工場共通の標準賃金を設定し、賃金水準が相対的に低い工場に対してはその引き上げを義務づけ、業界全体として労働条件の改善・向上をはかった点を明らかにした。さらに第3として、同時期に事業者団体が取り組んでいた販売統制への協力を取り上げる。電球硝子工業では、それまで東京バルブ会による製品価格統制が実施されていたが不徹底に終わっていた。そこで産業協力委員会は、統制違反工場に対して労働組合による労働停止を実施して販売統制の徹底化をはかった。それとともに上記共済制度の設立、標準賃金制度の採用に非協力的な工場に対しても、同様な対抗措置を組織的に展開してその徹底化をはかった点を明らかにした。
以上のように電球硝子工業では経済統制と産業協力運動とが相互補完的に展開され、企業経営の安定化と労働条件の改善・向上が追求されたのである。
平山 勉「高度成長期前半における金型製造業の設備投資動向−プラスチック用金型製造業を事例として−」

本論文は、高度成長期前半の金型製造業における設備投資の動向を検討したものである。近年の研究では、機械工業振興臨時措置法を通じた金型産業の育成が、当該産業の設備投資を促進したことが示されている。特に同法の施策の一環であった日本開発銀行による資金供給は、その「呼び水効果」も伴って、融資企業の設備投資を促進する効果をもっていた。しかし、全ての金型製造業者が日本開発銀行による融資を受けられたわけではない。この点に着目して、本論文では、機振法対象外となった企業の設備投資動向について東京地区のプラスチック用金型製造業者を素材として、日本金型工業会東部支部所蔵が所蔵する関東プラスチック金型組合に関する資料や同組合の活動内容を掲載している業界誌などを用いて検討した。
 高度成長期前半のプラスチック用金型製造業者は、当該市場で起きたプラスチック製品拡大の影響を受け、受注製品の量的拡大および質的変化に直面した。特に1950年代後半より顕在化しはじめた射出成形用金型需要の増加は、その受注企業に設備投資の必要性を強く認識させるものであった。このような状況のなか1958年2月、関東プラスチック金型組合が結成されることとなる。同組合は、射出成形用金型需要に直面していた企業の働き掛けによって結成されたものであり、同組合員の大勢は日本開発銀行の融資対象外となった中小零細企業であった。同組合では、工作機械の割賦購入の開始や東京都近代化資金の活用といった設備投資を促進させる取組みが実施されていく。また組合活動を通じて設備や技術に関する情報が組合員間で共有されるとともに、組合員の設備投資意欲は増進していった。その結果、1960年代中盤には、日本開発銀行の融資対象外となった中小零細企業においても保有設備は大幅に改善することとなった。
柳沢のどか「1920年代ドイツにおける非営利住宅建設と借家市場−ゾーリンゲン・ヴェーガーホーフ団地の場合−」

住宅問題は近現代都市社会に共通する問題である。ドイツにおいても19世紀半ば以降、工業化に伴って都市に大量の人口がなだれ込み、低所得者向け住宅の環境悪化・量的不足が生じた。都市への人口流入数は1920年代後半に人口流出数を下回ることになるが、住宅問題はその時になっても解決されておらず、むしろ、第一次世界大戦中の建設活動の中断や戦後の結婚件数の増加によってさらに深刻になっていった。とりわけ、結婚件数の増加は核家族化を進行させており、核家族のための小住宅供給が以前にもまして求められるようになった。つまり1920年代には、都市居住人口の増加による旧来型の住宅問題と核家族増加による新しい形の住宅問題とが共存していたのである。そのような中で政府や地方自治体は、住宅建設のための助成金交付に本格的に取り組むようになった。助成金は、営利を第一の目的とせずに小住宅供給を行う住宅協同組合・会社に優先的に配分され、これにより非営利住宅建設が活発化した。本報告では、当時の非営利住宅建設が上述の新旧の住宅問題を解決したか否か、という点を、「ゾーリンゲン貯蓄建設組合」が供給したヴェーガーホーフ団地を事例に分析する。同組合はゾーリンゲン市内最大の住宅供給主体でもあり、この非営利住宅協同組合の活発な住宅供給によって同市の人口千人あたりの住宅純増数は全国最大の規模に達した。本稿ではまず、ヴェーガーホーフ団地の居住者構成に着目することで、新築住宅供給の直接的効果を分析する。この分析により、同団地での住宅供給が新型の住宅問題を緩和させたが、旧来型住宅問題を解決しなかった点が明らかになる。本稿ではさらに、団地建設によって生じた中古住宅供給の変化にも着目する。具体的には、新築住宅供給の際に起こった引越しの連鎖を分析し、同市での非営利団地建設が中古住宅市場を活性化させ、その結果、新旧の住宅問題が緩和した点を明らかにする。
196号(第49巻4号)
2007年7月
早川大介「両大戦間期の日銀支店開設と地域−日銀松山支店を事例に−」

日本銀行は,1882年の開業以来,同年の大阪支店を嚆矢として順次各地に支店・出張所を開設していった。両大戦間期には秋田,松本などに支店増設がなされ,戦時期の急激な増設を経て,昭和戦前期までに全国に26の支店が開設されるに至った。本稿では,1932年11月に開業した日本銀行松山支店(愛媛県松山市)を事例に日銀支店開設過程とその地域における役について検討する。
戦前期の日本銀行は,一部の銀行と取引を結び,貸付や手形割引を通じた戦略的産業部門への「産業金融」や,金融危機の際には「最後の貸し手」としての特融というかたちで日銀信用を供給してきた。日銀支店は,各地域においてその実行主体となっていたのであり,いわば「日銀信用のチャネル」として機能していたといえよう。
本稿では,愛媛県で展開された誘致運動に着目し,地域側と日銀側の双方から支店開設の分析をおこなう。大戦ブーム後に各地で日銀支店誘致運動が起こったが,松山でも銀行同盟会・商工団体連合会を中心に運動が展開された。当初は大戦ブームを背景とする旺盛な資金需要への対応が主たる動因であったが,反動恐慌を境にして20年代の慢性不況期には金融不安を背景に「最後の貸し手」である日銀支店を近傍に呼び寄せることへと動機がシフトしていき,県会をも動員し運動は大規模化していった。当初,支店開設に対して慎重な姿勢を示していた日銀サイドも,旺盛な誘致運動もあり,四国での銀行の動揺が頻発するなかで当地への支店設置の必要性を認識しはじめた。
その過程で,1927年に有力銀行の今治商業銀行が休業し,県下の諸銀行も取付に遭遇した。最有力行の五十二銀行は,諸銀行の救済を行ったが今治商業銀行の救済融資は不可能であり,対岸の日銀広島支店から救済融資のため海を越えた現送がおこなわれた。この経験から,日銀は松山支店開設の緊急性を認識し,同支店は27年金融恐慌後の初の支店として開設された。
松山支店は,開業後県下の銀行と取引を結び,愛媛県下の日銀信用の利用可能性は向上した。しかしながら,20年代前半の緩慢な金融市場のなか,松山支店の「日銀信用のチャネル」としての役割は限定的なものにとどまったが,その後戦時期の銀行合同の進展の際に大きな役割を果たすことになる。
名和洋人「カリフォルニア州における大規模水資源開発事業とその地域的インパクト−1930〜1970年を中心に−」

アメリカ合衆国の西部地域は長く東部の植民地的な位置にあったが、ニューディール期以降大きく発展する。開墾法に基づく多額の連邦財政支出の下で水資源開発事業が実施され、第二次大戦後の地域経済発展の基礎となったのである。
そこで本稿は第一に、開墾局事業の中でも、現在においても全米最大の灌漑農業地域をかかえるカリフォルニア州において用水開発に重大な役割を果たすセントラルバレープロジェクト(CVP)の具体化の経緯、事業運用体制の確立過程と結果について、灌漑用水事業に対象を限定して実証的に分析した。CVPの事業具体化の要因は、当該地域の農業関係者による継続的なロビー活動とニューディール政策下のスペンディングポリシーの二点にあった。ただし、連邦事業予算確保の前提として、灌漑用水の利用権等の開発利益を、可能な限り広く分配する事業運用形態を堅持することが法的に要求された。しかし、このような事業運用のあり方に対し、地域の大土地所有者が強く反発し、最終的には自らの利害に沿うようにCVPの事業運用形態を変質させ、それぞれの資本蓄積手段に転化した。
本稿では第二に、地域の大土地所有者等の利害関係者が活発なロビー活動を行って、ブラセロ計画を実現させ、連邦支援を獲得した上でメキシコ人農業労働者をセントラルバレーに導入した点を明らかにした。その際、大土地所有者は州の職業紹介機関を支配して農業労働者の賃金を極めて低い水準に設定し、間接的にアメリカ人農業労働者を排除した。地域の労働運動もブラセロ計画により大打撃を受けたため、農業労働条件は劣悪な状況のまま推移したのである。
結局、新たにセントラルバレーの住民となったのは、開墾事業において当初想定されていた東部のアメリカ人ではなくメキシコ人であった。また、セントラルバレーにおいては、全米有数の豊かな灌漑農業が新たに形成される一方で、加州最悪の貧困地域が出現することになった。当該地域で当初掲げられたニューディール的経済政策運営も、トルーマン政権が成立した1940年代後半以降、こうした経緯で深刻な挫折を迎えることになったのである。結局のところ、二つの連邦政策を軸とした加州の農業開発は、地域利害関係者の強力なロビー活動を背景に、セントラルバレーにおける資本主義的農業の発展に大いに貢献することになったと言えよう。
山浦陽一「中山間地域における出入作の性格と動態−新潟県急傾斜水田地域を事例に−」

本稿は中山間地域における出入作を分析対象とし、その性格および動態を明らかにすることを課題としている。この課題設定は、その分析から中山間地域、特に小規模化し自己完結的な農地管理が困難化する集落における農地管理のあり方を検討する際に、重要な示唆を得られるとの考えからである。集落を越える広域的な農地管理を担う主体の有無と、その主体にとっての経済的合理性の検討を意識して、出入作を分析課題として選択している。対象とする地目・集落は田・水田集落に限定し、新潟県中山間地域を対象に、統計分析、実態調査の両面から分析を行う。
分析により明らかとなるのは以下の諸点である。まず統計分析によって、新潟県では少なくない小規模化集落において入作が展開しているのに対し、新潟を除いた北陸3県においては、入作の展開が微弱である点が明らかとなった。この両者の入作の広がりの相違の要因としては、集落出身の離村者による通作(離村型)については、降雪量の多寡やDID到達時間が想定された。他方の集落出身ではない周辺集落等からの入作(非離村型)については、新潟県では周辺集落よりも生産条件の劣る圃場の多い集落においても入作が展開していた。
この点の解明を意識して、実態調査では、周辺集落よりも生産条件に劣る圃場の多い集落を選択し、そこでの非離村型の出入作の実態に迫った。事例集落のように割合で見れば入作者が集落内水田の過半を経営する集落も存在し、そこでの出入作発生の契機は、当該集落と外部主体の居住・立地する集落との間の圃場の生産条件格差であった。集落平均で見れば条件の劣る圃場が多い集落であっても、圃場1枚ごとの条件の相違を誘因として出入作が発生している。少なくとも現在展開している出入作には、自集落で取得できる圃場に比較して、より条件の良い圃場を取得しているという意味での経済的合理性が存在していると判断できる。従って、この両集落の生産条件のズレの幅が大きいほど、利用主体の不足する集落の農地利用主体がより確保できる可能性は高まることになる。
入作農家が第2種兼業農家および高齢専業農家によって占められていた実態からは、彼らを中長期的な農地利用主体として位置づけることは困難であるといわざるを得ない。入作に対するニーズは現在も存在しており、短期的、中継ぎ的な方策としてはその掘り起こし、斡旋も有効であろうが、中長期的にはより根本的な対応が不可欠となる。
ラーシュ・マグヌッソン(石原俊時訳)「スウェーデンにおけるプロと工業化−その文脈と帰結−」
195号(第49巻3号)
2007年4月
福澤直樹「ドイツにおける社会国家の途―第二帝政期から現在に至るまでの歴史的経緯―」

 近現代ドイツにおいては市場経済がその社会経済秩序の核心とされつつも、その機能や援用可能範囲の限界ゆえに様々な調整がなされてきた。その調整は必ずしも国家によるものではなく、当初は個々の血縁的、地縁的、或いは種々の社会的紐帯(ないし連帯)から始まった。しかし経済活動の範囲が広がり、経済単位としての国民国家の位置が確立し、工業化社会における社会問題が深刻化する中で、国が一定の責任を果たさざるを得なくなった。ドイツにおけるその表れが1880年代労働者保険法以来の社会給付諸立法などであった。しかしその際には既存の連帯的諸集団の存在が往々にして十全の国民的連帯のための制度構築の阻害要因ともなった。格差温存的な個別利害と共同性の国民的規模への伸延への志向はしばしば軋轢をともなったが、国民的連帯はそうした諸利害や市場経済秩序と折り合いをつけつつ、その後も拡充された。時として厳しい経済環境の中で国民的連帯が機能不全に陥ることや、国民共同体が多大な犠牲の上に強権的に構築されることもあったが、第二次大戦後のドイツ連邦共和国では、市場経済的秩序を維持しながらも国民的連帯の観念が一般に定着した。さらに個別の共同性も多元的に機能することで社会の福祉体制は補完された。連邦共和国では給付国家としての「福祉国家」を構築するのではなく、市場経済の特性を考究し尽くした上での哲学に立脚した「社会国家」体制のもと、市場整合的に、効率的に、そして個人の自発性を削ぐことなしに公正な分配を実現し不適切な格差を解消することが、少なくとも思弁的なレベルで追求された。戦後の高度成長の終焉、オイルショックなどの要因は社会給付の困難或いは限界を示し得るが、ドイツでは社会給付制度の根本的解体もしくは再構築への動きは見られなかった。社会国家としての合意の強固さによるのだとも考えられるが、最近の動きはその観察を否定する傾向をもつ。グローバル化や地域統合に伴う対外経済競争激化による困難に直面し、SPDなどの左派政党政権ですら敢えて福祉の削減を志向するようになったからである。市場機能の健全化、分配の公正にかかわる哲学はどこへ行ったのか。社会国家の動態の考察の意義はいまだ尽きない。
加瀬和俊「現代日本における失業対策の圧縮とその歴史的前提」

日本における失業対策は、2000年前後以降、急速に変化を見せている。その内容はグローバリゼーションの下で各国に 共通する規制緩和と労働市場流動化の傾向であるが、失業給付額の急減や直接雇用政策の欠落の継続など、日本独自の特 徴もある。この変化は、新古典派理論に基づいているが、日本自身の歴史的経験とも密接につながっている。本稿は、第 一次大戦期以降の日本の失業政策の経験を跡付けることによって、進行中の変化の意義を歴史的視点から解明することを 意図している。本稿の分析によれば、日本政府は失業問題の解決のために景気の回復を一貫して過度に重視しており、し たがって失業者救済のための財政支出額の増加を避け、雇用主が自由に行動することを容認してきたのであって、その結 果、失業対策の主要な対象は労働者下層に限定されてきた。こうした特徴は、経済が成長している間には顕在化しなかっ たが、失業率が上昇するにともなって明瞭になってきたのである。
瀬戸岡紘「グローバル経済下の格差拡大とアメリカの現状」

本稿は、今日のアメリカにおける格差拡大の現状を観察しつつ、その要因および背景の探求をこころみる。
本稿は、理論面から、アメリカの伝統的左翼理論の欠陥、すなわち長期的トレンドの理論と現状分析とのあいだに欠如する中間項をうめつつ、歴史認識面から、歴史をつくるのは民衆だという基本認識にたって、アメリカの人口の7割弱を占めこの国を事実上ささえている中産市民に焦点をあてる。そこには、いま世界的格差拡大を引きおこしている究極の動因としての競争原理が、アメリカ中産市民の意向にあることが見えてくる。
格差拡大や拡大した格差の固定化は、長期的に見ればこの国の存立を脅かしかねない危険な傾向だが、当面はいわゆる負け組の中産市民をふくめて、その動因である新自由主義と競争原理を否定するどころか、逆に一層の徹底を要求する方向にはたらいている。理由は、第1に、アメリカ中産市民の<機会と効率と成長>を回復したいという(小)資本家的指向、第2に、這い上がってこようとする下層住民を蹴落とし中産市民の既得権益を擁護する課題を<自由と民主主義と公民権運動の成果>を否定しないで実現する手段が新自由主義と競争原理のほかにはないこと、第3に、グローバリゼーションによってアメリカ中産市民にもたらされるうまみのある地球的規模の構造が現実に存在するようになった以上、それと密接不可分な<新自由主義も競争原理も格差の拡大も>アメリカ中産市民としては放棄するなど考えられないこと、にある。
ニューディール期に形成された、今日見るようなアメリカ中産市民は、コーポリット・リベラリズムのもとで一定の物質的に豊かな生活の保障と社会的不安要因の一定の排除が達成され(みずからの転落時の生活保障をふくむ)、コーポリット・リベラリズムが行き詰まったあとは本来の(小)資本家的指向をむきだしにし<機会と効率と成長>をもとめて暴走することによって、みずからを解体する過程にみちびいた。今日の格差拡大傾向は、この歴史的段階ならではの現象、すなわち、アメリカの主人公たる分厚い中産市民層の自己解体過程の現象だ、と考えられる。
後藤道夫「現代日本の格差拡大とワーキング・プア」

現在の「格差問題」の中心は、「文化的で健康な最低限度の生活」が不可能な低所得世帯の増加、つまり貧困の大規模な拡大にある。就業構造基本調査(1997、2002)を用い、生活保護受給世帯の最低生活費の計算値(2002)を貧困基準として貧困世帯を推計すると、内閣府と小泉首相(当時)の説明とことなり、貧困世帯増(生活保護受給世帯を除き268万世帯)の第1の要因はワーキング・プア(勤労貧困世帯)の増加(142万世帯)であり、ついで、年金貧困世帯の増加(82.2万世帯)である。世帯主が勤労年齢である世帯のジニ係数は年収ベース、可処分所得ベースの両者で拡大している。
ワーキング・プア急増の最大の背景は、日本型雇用の解体を中心とする労働市場構造の大転換であり、それによってもたらされた賃金と雇用条件の急激な悪化である。これまで雇用労働者世帯の多くに生活の安定を保障していた長期雇用と年功賃金は、「社会標準」の位置から落とされた。
他方、これまでの日本の社会保障制度は、日本型雇用の安定を大前提とし、大量のワーキング・プアは存在しないはず、という想定で形成されていた。各種の社会手当は貧弱であり、生活インフラの利用や学校教育費用は高額で、社会保険の制度設計は大量の低所得被保険者を想定しておらず、また、傷病手当や雇用保険などの所得保障が不備あるいは脆弱であり、公的扶助制度の運用も勤労不能世帯に事実上絞られてきた。1997年から本格化した「構造改革」は、日本型雇用を解体しながら、同時に、脆弱な社会保障をさらに削減した。
支配層は上層国民を中心とした新たな社会統合を形成し、格差・貧困の拡大による社会統合危機を乗り越えようとしているが、これは、事実上の「格差の制度化」をもたらすものとなろう。
吉田義明「格差拡大と世代再生産の危機について(コメント1)」
西川純子「キリンの逆襲(コメント2)」
小堀聡「戦間期日本におけるエネルギー節約政策の展開−燃焼指導に着目して−」

本稿の課題は、戦間期日本におけるエネルギー節約への取り組みの発展過程および特質を燃焼指導―燃料消費者の燃焼方法・燃焼装置の改善を促す政策―に着目して論ずることである。
炭価の上昇のみならず資源制約への危機感を背景として、1910年代末になると燃焼工学への関心が高まり、農商務省燃料研究所の設立・燃料協会の結成に代表されるような技術者・研究者集団の動きが活発化した。そして、20年代後半になると複数の地方自治体や地方能率団体で燃料節約運動が展開される。こうした取り組みをもっとも本格的に実施したのが、煤煙防止運動が活発に展開された大阪府である。1929年、大阪府立産業能率研究所は燃焼指導部を設立し、燃料節約を地元工場に指導した。指導では設備の新設や改造よりも作業方法の改善によって燃料消費を節約することが重視されていた。さらに、作業方法の改善には火夫の資質向上が必要だとの考えから、その資格制度や養成事業が創設された。
大阪府のこうした取り組みには地方自治体による産業合理化政策として他県でも模倣される。そして1930年頃から燃焼節約への関心を強めていた商工省も、日中戦争の長期化により石炭需給の逼迫が深刻化した1938年には燃焼指導を開始した。燃焼指導の普及を促したのは、大阪など先進的な地域で活躍した技術者の他地域への出張・移動であった。
戦間期の燃焼指導は、指導対象をボイラーの燃焼に限定していた点で未熟なものであったが、この時期に形成された技術者集団は、やがて戦時・戦後におけるエネルギー節約技術の発展を担うことになる。資源制約を背景として、戦間期以降、日本の産業合理化では、規模の経済性を発揮させることよりもむしろ生産費を可能な限り節減することが追求されていったのである。
194号(第49巻2号)
2007年1月

大島朋剛「明治期における清酒流通の構造変化とその担い手」

 本稿は、明治後期以降の大規模酒造家による地方市場への参入理由と条件について、産地間の競争、メーカーと問屋、東京と地方を射程に入れて明らかにしたものである。比較的生産に関する分析が豊富だった近代日本酒造業の先行研究ふまえた上で、地方の流通主体を媒介として、生産・流通・市場の動態的な連関を把握しようと試みている。また、担い手の経営史にも注目しながら、流通機構の変化を軸とした、経済全体の再生産における流通の位置について、特に意識した。
 幕末・維新期までともに江戸積によって発展した、灘と知多の2つの清酒産地は、明治期を通じて、それぞれ異なる展開を示した。灘酒造業がさらなる発展を遂げ、全国に市場を拡大してゆく一方で、知多酒造業は衰退して市場を狭めていった。戦前期の日本酒造業をリードした兵庫県西宮の辰馬本家の場合、東京では困難だった取引における主導権の掌握が、地方問屋との取引において可能となったことが、明治30年代からの地方向け販売比率の上昇につながった。問屋優位からメーカー優位への移行が、東京に先んじて地方において進みつつあったことは、本稿における強調点の1つである。
 また、このような市場構造の変化の過程で、中埜酒店のような地方問屋の果たした役割が大きな意味をもっていた。醸造資本によって設置された地方流通主体が、開設当初こそ製販統合的な性質を帯びていたものの、やがて問屋としての機能を備えつつ、自立した側面を見せながら発展できたことは、灘などの大規模酒造家にとって、地方市場を開拓する条件になったという点が、本稿において導き出された結論であり、かつ研究史に対する新たな貢献であると考える。

冨永理恵「フランスにおける社会カトリシスムと経済社会の組織化(1904−39年)―『フランス社会週間』の活動を中心として―」
 社会カトリシスムとは、19世紀後半から大陸ヨーロッパを中心に、ローマ・カトリック教会とその周辺の活動家たちによって行われたカトリックの理念に基づく経済社会の構造改革運動である。20世紀に入って、社会カトリシスムの中心的な役割を担ったのは、1904年に高等研究センターとして設立された「フランス社会週間」である。本稿では、20世紀初頭から第二次世界大戦前夜までの「社会週間」の歴史を跡付けながら、どのようにこの構造改革運動が進化したかを明らかにする。「社会週間」の提出する構造改革構想の基礎は、一貫して、労働者と雇主を組合に組織すること、それらの組合から選出された代表たちを上位の職業団体に組織すること、その団体に国家の補完的な役割を負わせることであった。政労使の協調関係を構想の背骨に据えており、いわゆる「コルポラティスム」である。
 しかしながら、「社会週間」のコルポラティスムを基礎にした改革構想の内容は、時代によって異なっている。1904−14年まで、「社会週間」の活動家たちは組合運動(サンディカリスム)を中心とする議論を行っていた。ところが、1920年代になると、彼らはコルポラティスムを基礎にした構造改革の構想をつぎつぎと提出した。さらに、1930年代後半になると、「社会週間」の活動家たちは自らの改革構想と、団体の活動によって制約を受ける市場において価格メカニズムの作用を保証するプロテスタントや「新自由主義」の理論との接合を模索しはじめるようになる。
 こうした「社会週間」の改革構想の進化について、主に二つの論点がある。ひとつは、彼らは「最低生活保証」と「人間精神の自由」を同時に満たすような経済社会を実現しようとしたという点においては一貫していたことである。いまひとつは、カトリックの機関である「社会週間」が非キリスト教化しつつあったことである。
八木紀一郎 "Emergence of Marxian Scholarship in Japan: Kawakami Hajime and His Two Critics"
張暁紅「1920年代の奉天市における中国人綿織物業」
193号(第49巻1号)
2006年10月
林 采成「日中戦争下の華北交通の設立と戦時輸送の展開」
 戦争勃発に伴って、朝鮮総督府は、経済再生産からの生産要素の流出を意味する軍需部門に対する優先的資源配分のため、企画部を中心に総動員計画に基いて植民地経済の国家統制的運営を図った。その過程で、地政学的位置から朝鮮内の物資輸送と日本・大陸間の架橋という二つの任務を帯びている朝鮮国鉄を中心とする植民地朝鮮の陸上輸送部門は、平時の経済活動に伴う副次的局面以上の意味を有し、戦時経済の基本となる物動計画を空間的に実現するのみならず、資源制約及び戦況が深刻化する中で、戦時経済の運営の成否を左右する基本要因の一つとなった。
 超過需要の膨大化と輸送力強化の限界に直面した朝鮮国鉄は、戦前からの輸送計画に基いた空間的・時間的平均輸送を強化すると共に、国家目的の優先順位に従った輸送力配分を行い、鉄道輸送の需給調整を期した。輸送過程の計画性は統制経済の進展と「関特演」軍事輸送の実施を契機として全面的に高められ、総督府・国鉄と統制機関・企業の間の情報交換による輸送力の事前的配分体系が組織化された。それに伴い、国家統制は鉄道輸送の両端側に拡張され、貨物の集配・積卸に当る小運送業の統制合同が進められた。
 日米開戦後、輸入力に代わって物動計画の規定要因となった海上輸送力の喪失に対処して、代替輸送路として大陸物資中継輸送が開始され、朝鮮内では、行政機構改革と海陸小運送業の統合を通じて海陸一貫輸送体制が確立されると同時に、貨物重点主義のため旅客輸送の圧縮が続けられた。また、輸送過程の計画性は一応華北−満州−朝鮮−日本の輸送路までに拡大されたものの、計画性の極大化としての大陸鉄道の完全一元化の要求は、戦時経済の諸般計画の実施における計画輸送の不可欠性に基いた朝鮮側の交通と行政の分離不可論を克服できず、中継輸送(軍事輸送)の一元化の水準にとどまった。輸送過程の国家介入が超過需要の市場状態と経済の集権計画化から要求・高揚されたにも拘らず、輸送部門は戦時経済の隘路とならざるを得なかった。
関根佳恵「多国籍アグリビジzネスによる日本農業参入の新形態―ドール・ジャパンの国産野菜事業を事例として―」

 現代の日本農業は、モノやヒトの流入に続いて、外国資本の参入というグローバル化の新たな局面を迎えている。本稿では、日本農業が直面している現段階を明らかにするために、外資系多国籍アグリビジネスの日本法人であるドール・ジャパンの日本農業参入を事例として、その参入の背景と実態を明らかにすることを課題とした。現地調査を通して分析を行った結果、以下のことが示唆された。
 ドール・ジャパンによる日本農業参入の背景としては、第一に、世界本社が世界各地で展開し始めた現地生産・現地消費の推進という経営戦略との関連を指摘できる。一方、国内においては、同社の基幹事業であるバナナの輸入販売が1990年代初頭に不安定化し、取扱商品の多角化と流通事業への参入という経営の多角化方針が採用されたことが、同社の農業生産部門への参入を促した。すなわち、同社の国産野菜生産への参入は、青果物流通業に対する大規模なインフラ投資によるインテグレーション形成戦略の一環として位置付けられる。
 しかし、日本農家との契約栽培を通じて日本農業へ参入してきたドール・ジャパンは、農家による契約不履行によって多額の損害を出し、事業開始後わずか2年で国産野菜事業の主体を契約農家から直営型の農業生産法人(以下、ファームとする)へと切り替えている。その後、同社は、2000年からファームの組織化に乗り出し、北海道から鹿児島まで全国各地に8社を設立して、国産ブロッコリーのリレー出荷体制を確立した。
 このファーム設立に当って、ドール・ジャパンは、国産野菜事業に関連する3つの事業体を組織している。一つ目は実際の生産事業に当る各ファームであり、二つ目は金融事業を担当する(株)アグリ・プロデュース、三つ目はファームの人事管理や借地の交渉に当る(株)北海道産直センターである。ドール・ジャパンは販売を担当しており、この4者が単一の会社のように一体となって国産野菜事業を推進しているのである。各ファームは、(株)北海道産直センターに売上に対して5%のロイヤリティを支払っており、フランチャイズ型のファーム展開として注目される。
 ドール・ジャパンは各ファームに対して直接出資は行っていないが、融資や人事、販売ルートの掌握によって、実質上のファームの経営権を保有している。また、各ファームではパート労働者が農業生産に従事しており、ドール・ジャパンは契約栽培時代には直接的生産者に対して発揮できなかった指揮権を、直接的農業労働者に対して発揮するに至っている。
 一方、ファームが立地する地域にとって、多国籍アグリビジネスを受容する要因とはどのようなことだったのだろうか。それは、農家の高齢化による地域の農業体系の維持が困難になったことと、それにともなう遊休地化の拡大に対する懸念であった。しかし、他方のアグリビジネス側は、ファームの生産活動にとって好条件を提示する自治体へファームを移転するなど、経営条件によって立地選択を行っていることも明らかになった。
 ドール・ジャパンは、ファームをコアに、全国の農協や出荷団体と契約栽培を強化し、2004年時点で全国のブロッコリー生産面積の4.8%、出荷量で5.2%のシェアを有するまでに成長をとげている。しかし、ブロッコリーは季節によって産地が移動することから、季節によってはドール・ジャパンが供給するブロッコリーは市場の50%を占める時期もあり、市場において存在感を増している。地域別に見ても、北海道の日胆ファームの場合、立地自治体の農業粗生産額に占めるシェアは6%を超えており、もはや地域農業にとっても無視できないほどの存在になっているといえよう。
 さらに、同社は直営型のファームで生産したブロッコリーにプライベート・ブランドを付し、高価格帯での販売を行っている。また、販路を従来の大型小売店や卸売会社から、全国各地の生活協同組合へと拡大し、輸入農産物の販売のみを行っていた頃にはアクセスできなかった顧客の獲得にいたった。
 農家が高齢化し農地の遊休地化が懸念されている農村においては、ドール・ジャパンの参入を歓迎する声もあるが、パート雇用は地域外から供給されており、また地域の農作業受託組織との連携が見られないなど、その波及効果に対する評価は慎重であるべきであろう。また、ドール・ジャパンがファームを閉鎖し農業生産から撤退する事例も出てきたことから、日本農業の持続的担い手としては大きな限界も有していると考えられる。

松家 仁「第一次大戦から1921年までのポーランドにおける統制経済とユダヤ人問題」

 本論は、先行研究において主に思想史・政治史的な問題として取り扱われてきたポーランドにおけるユダヤ人に対するステレオタイプを、ドイツによる占領政策の一環として第一次大戦期にポーランドの土地に導入され、その後ポーランド・ソヴィェト戦争期に継続された統制経済政策の分析を通じて検討することを目的とする。
 本論の特徴は、(1) ポーランドの先行研究で用いられてきた独立(1918年)という時代区分を採用せず、統制経済が導入・維持された期間全体を通して検討しつつ、かつ(2) 食糧徴発・配給制度の具体的な分析を通して、統制経済がどのようにこのステレオタイプを生み出したのかを分析する。
 ポーランドにおける食糧徴発・配給制度は、ドイツ占領時代にはまず二つの特殊会社を通して、ついで1917年からは配給省/邦穀物局(Landesgetreideamt)を通じて穀物が徴発され、市行政を通して分配された。ついで、ポーランド独立後は配給省/国立穀物局(Panstwowy Urzad Zbozowy)などが穀物徴発を行った。
 しかしこれらの機関は、飢餓水準以下の基準配給量しか提供できず、むしろ闇取引を誘発するような制度であった。さらに暴利取締りは恣意的で、かつ自治体が自分の住民の為に率先して統制制度を迂回する例すら見られた。こうしてユダヤ人を含む都市住民への社会政策として実行された食糧配給制度が、結果的にポーランド人とユダヤ人の間の対立を増幅する作用を持っていたことを示す。最後に、食糧配給の公営化や生協の優遇といった、西欧では社会政策として有効であった諸政策が、東欧においてはユダヤ人排除の役割を果たしたことを指摘して結論とする。

石原俊時「福祉国家の現在と未来―『講座・福祉国家のゆくえ』をめぐって―」
Political Economy & Economic History Association.
Hongo Post Office Box 56, Bunkyo-ku, Tokyo 113-8691 JAPAN