Journal of Political Economy & Economic History

『歴史と経済』


日本語要旨

-220-229号 --210-219号 -200-209号 -193-199号
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209号(第53巻1号)
2010年10月
大瀧 真俊「戦間期における軍馬資源政策と東北産馬業の変容-馬産農家の経営収支改善要求に視点を置いて-」
 本稿の課題は,戦間期における軍縮や満洲事変を背景とした軍馬資源政策の変化が,同時期産馬業にどのような変容をもたらしたのかを,馬産農家の経営収支改善要求に視点を置いて明らかにすることである.戦前の主要馬産地であった東北地方について分析を行なった結果,次の3点が明らかとなった.
 1)1920年代の東北馬産農家は,軍馬生産から農馬生産への転換を試みた.軍縮による軍馬需要の減少から軍馬生産を行なうリスクが上昇したため,売却価格は低くても販路の広い農馬生産を選択し,経営の安定化を図ったのである.しかし農馬生産に適した種牡馬を得ることは制度的・経済的に困難であったことからその転換は十分に進まず,生産を中止する馬産農家が続出した.そうした農家では耕種部門において繁殖牝馬の農耕利用を拡大することによって,馬産部門における遊休化分を相殺するという対応がみられた.
 2)1930年代の東北馬産農家は,恐慌と冷害の挟撃を受けたことで1920年代よりも更に経営収支が悪化し,農林省に対し生産費の一部負担や馬産に伴うリスクの軽減を直訴するまでに至った.この事態を国防・産業の両面から重くみた農林省は,種牡馬の設置・維持や牧野改良に対する助成を直ちに開始し,馬産農家の生産意欲を高めるという点で成功を収めた.ただし同時にそれらの施策は一時的な助成金の投下に過ぎず,馬産経営収支を根本的に改善する効力を有していなかった.
 3)第二の点から,同時期の東北馬産農家は,陸軍に対して軍馬購買頭数の増加を請願した.軍馬という高価格取引の増加による馬価格の上昇と,それに伴う馬産収入の増加に期待したのである.ここに東北馬産経営と軍馬需要が再び結びつくこととなった.しかし実際に行なわれた同時期の軍馬購買事業は,満洲事変の影響から即戦力となる壮馬を中心に行なわれ,馬産農家が望んだ軍馬購買を梃子とした経済更生は実現されなかった.
 
井上 巽「1932年のイギリス輸入関税法とオタワ特恵協定の成立」

 1931年夏のポンド危機を転機にして、イギリスは同年9月の金本位制離脱に続き、翌32年2月に輸入関税法を制定して保護主義政策に転じたが、この歴史的な政策転換の結果、イギリスの対外経済政策上でも大きな転換が生じた。金本位制離脱を契機にスターリング地域が形成されはじめ、また輸入関税法を前提にオタワ協定が締結されて帝国特恵システムが成立した。小稿では考察対象を1932年の輸入関税法とオタワ特恵協定の成立にしぼって、これらの政策転換を促した経済的動因を究明することを主な狙いとしている。
 まず輸入関税法については、従来、深刻化した「大不況」下における国内産業保護=反失業政策として一般に理解されてきたが、研究史上、B.アイケングリーンが指摘したように、1931年のポンド危機のインパクトの下で、イギリス保護主義論の基調には大きな変化が現れた。とくに金離脱後の10月総選挙のマニフェストにおいて貿易収支の改善とポンド防衛を掲げた保守党が圧勝し、その主導下で同年12月、挙国内閣内に貿易収支委員会が設置された。この貿易収支委員会の報告は、1931年に「見えざる輸出」の急減によってイギリス経常収支が赤字に転落した危機的事態に対処するため、輸入削減と輸出拡大による貿易収支改善を通して国際収支の均衡=ポンド安定を達成する政策目標を前面に掲げて一般関税の導入を勧告し、1932年2月に輸入関税法が制定された。
 この輸入関税法の制定を前提にして、同年7月〜8月にオタワ帝国経済会議が開催された。
オタワにおけるイギリス代表団の本来の目標は、特恵譲許の見返りに自治領への輸出拡大によって貿易収支の改善をはかる点にあったが、「世界大不況」下における一次産品価格の激落によって債務危機に直面していた自治領との厳しい2国間交渉の結果、イギリスは逆に自治領からの輸入拡大を容認せざるをえなかった。この結果、成立したオタワ特恵システムの最も顕著な特徴はイギリスが自治領からの輸入を増大させた「輸入促進効果」であり、イギリスの自治領との貿易収支は全体として悪化し赤字が拡大した。だが、このようなイギリス側の貿易譲歩は、ポンド債務国である自治領諸国のデフォルトを防止するとともに、これら諸国のロンドン残高の増強によってスターリング・ポジションを強化し、帝国の金融的統合を核とするスターリング・ブロックの形成を促すことになった。

青木 健「農地改革期の耕作権移動-長野県下伊那郡伊賀良村の事例-」

  本稿は,農地改革期の耕作権移動の検討を通じて,戦後日本における農村社会の諸相を明らかにするものである.
 本稿では,下伊那郡の中心部である飯田市に隣接する地域,伊賀良村について検討する.下伊那郡からは,1937年以来の日中戦争期に多数の満州移民が送り出された.伊賀良村から送り出された移民は214人にのぼり,そのうちのほぼ3分の1が敗戦後に帰還した.そうした引揚者だけでなく,復員者及び国内の他の都市からの疎開者に対する処遇も伊賀良村にとって難題であった.そのうち、国内の他県に再開拓に赴いた人々もいれば,伊賀良村にとどまった人々もいた.本稿では,伊賀良村の一区である大瀬木区に焦点をあて,農村社会(例えば,個別の「家」,近隣および区)が伊賀良村にとどまって帰農した,それらの人々をどのようにして受け入れたのかについて,次の二つのタイプの耕作権移動の検討を通じて明らかにする.一つはその当時の既存農家間の移動であり,他方は既存農家から新設農家への移動である.
 まず既存農家は,各々が所属する近隣組合(更生組合)の内で緊密に耕作地の移動を行って,引揚者,復員者及び疎開者の前記のような流入を主たる背景として生じた,耕作反別と世帯人数の不均衡の調整を行っていた.このような耕作地の移動は,それを経て地主が同じ更生組合に属する小作人と耕地の貸借を行うという結果になるという農地改革による地主小作関係の変化に対応していた.
 次に,帰農者の多くは家族・親族,姻戚及び近隣から個別的に耕作地を譲り受けて,農家を新設していた.しかし,若干の農家新設は次のような場合に行われた.ある場合には,耕作地主が耕作地を復員した子供ないし満州から引き揚げた兄弟に耕作地を分与し,そしてまた同じ更生組合に属する,その耕作地主の小作人も,彼らに自ら耕作する小作地を分与した.また他の場合は,大瀬木区が復員者へ荒廃状態にあった区有地を再配分したり,さもなければ失業者が大瀬木区外の農家から辛うじて耕作地を譲り受けることができたのである.
 結論的にいえば,以上のような耕作権移動を通じて多様な自作農が創設され,戦後の農村社会を構成することになるのである.

林采成「戦争の衝撃と国鉄の人的運用」

 本稿の課題は戦時期日本国鉄を取りあげ、労働力の流動化・希釈化に対して行われた労務対策によって戦前からの人事制度がどのように変容し、これが如何なる意味で戦後国鉄運営の前提になったかを明らかにすることである。
 日本国鉄は戦争勃発とともに、激しい労働力の流動化とそれに伴う希釈化問題に直面した。これに対し、内部教育の強化と配置転換を通じて労働力の質的低下に対応しながら、限られた人的資源をより効率的に利用した。その上、戦時中のモチベーションとして手当・賞与とフリンジベネフィットを拡充して、実質賃金の低下を引き止めようとした。加えて、現業委員会の奉公会への転換、鉄道青年練成所の新設を図ることで、イデオロギー的教化を試みた。
 しかし、日米開戦後、労働供給源が枯渇し、要員不足が深刻化した。そこで、国鉄は行政簡素化を断行した上、要員整備委員会を設置して職員を重点配置した。さらに新しい労働力の供給源としての女子、学徒を重視するようになった。とくに、生活水準の低下が著しくなるにつれ、それを補うため、昇格の機会を拡大した。こうした労務対策に基いて鉄道運営の効率化を実現し、1943年には生産性の面で戦前来の最高水準に到達した。
 それにもかかわらず、輸送危機が顕在化し、本土決戦が近づくと、国鉄は隊組織への転換を断行した。そのため、臨時に副鉄道官補という新しい身分を設置した上、10万人以上を判任官および同待遇に昇格させるとともに、傭人身分の廃止を見るに至った。こうした戦時中の変容を踏まえて、戦後国鉄の人的運用システムは連合軍の占領下で抜本的に再編されたのである。

208号(第52巻4号)
2010年7月
谷ヶ城秀吉「戦間期における台湾米移出過程と取引主体」
 本稿は、近代日本と植民地台湾の間の流通過程のあり方を考察し、商品供給量を規定する政府の働きやこれに対応する経済主体の活動を位置づけることを課題とした。具体的には1920年代から1930年代にかけての担い手の交替を論点として検討した。その際、外部環境の変化やこれに対応する経済主体の行動に留意して分析し、ここから析出された取引制度の変化によって生じた商品流通の量的質的なあり方を考察することを試みた。
 本稿から得られた知見は以下の通りである。1922年の蓬莱米登場を契機とする台湾米の対日移出の拡大は、混合保管制度と山下汽船の船荷証券発行を起点とする融通米制度を基礎とした投機的な取引システムに支えられており、これに対応した多数の台湾人移出商が取引に参入しシェアを拡大させていった。しかし、この取引は量的確保を主眼とするものであったから、移出商に対して質的な向上を促すような性質は持ち合わせていなかった。
 1926年の台湾米穀検査規則改定は、国内市場における台湾米の声価向上を目的としたが、検査の厳密化によって移出量が抑制されたため、移出商間の過当競争が現出し、取引の収益性低下を引き起こした。そして、こうした取引条件の悪化が移出商の活動を困難に陥れ、ひいては取引から撤退せざるをえなくなった。
 他方、このリスクに直面した日本人移出商は、ゴムロール式籾摺機の導入など、品位向上への積極的関与などを通じてかかる取引環境の変化に対応したことを明らかにした。また、1930年代初頭において三井物産、三菱商事、杉原商店、加藤商会の4社は激しい競争を繰り広げたが、こうした企業行動を担保していたのは取引利潤に匹敵する船会社からの割戻金であったことを指摘した。つまり、台湾米移出取引の担い手の変化は、取引制度と物流を主たる要因とする流通過程の構造的変化によって引き起こされたものと結論づけた。
 
桑田学「持続可能性の規範理論の基礎-福祉・代替・資本-」

「環境と開発に関する世界委員会」による1987年の報告書(Our Common Future)以来、持続可能性あるいは「持続可能な発展」概念をめぐる議論は、枯渇性資源制約下での成長理論に関する狭隘な論争に留まることなく、世代内および世代間のエコロジー的および社会的不平等に関わる分配問題を巻き込みながら広範な関心を獲得してきた。しかし、こうした概念の普及は同時に意味の拡散であって、いまやそれ自体ではその具体的内実の普遍性を保証できなくなっている。持続可能性の理論化をめぐる経済学内部の言説もまた、決して一枚岩ではなく、各学派が独自の枠組みを用いてこれを解釈・定義しようと試みてきた。なかでも新古典派に基礎をおく環境経済学と、熱力学法則から伝統的な経済学の体系構成の再構築を企ててきたエコロジー経済学は、主に経済-自然関係の基底的なビジョンの差異を反映して、「人工資本」と「自然資本」という異なる資本類型間の代替可能性をめぐって対立し、それに応じて「弱い持続可能性」(weak sustainability)と「強い持続可能性」(strong sustainability)という二つの規範モデルが提起されるに至っている。
 本稿の課題は、従来の先行研究で主たる検討対象となってきたこの両者の対立軸を、人工資本、自然資本、代替性(substitutability)、厚生(welfare)、福祉(well-being)といった、持続可能性をめぐる経済言説に現れる基礎的な諸概念に立ち返って再検討することにある。これらの概念はいずれも異なる解釈に開かれているにもかかわらず、これまで十分な概念分析が行われてきたわけではない。とくに財や資本の代替性による持続可能性の類型化は厚生や福祉をどのように理解するかに大きく依存する。そこで本稿では、上記の基礎概念と概念相互の内的関係を精査してみることで、持続可能性の二つの解釈の異同を改めて開示するとともに、主観主義的な効用概念や資本理論に基づく持続可能性解釈が共通に抱える欠陥を明らかにする。その上で、持続可能性の規範理論の基礎として、福祉の主観主義的な理解から客観主義的なそれへの転換が企図されてきたことの意義を考察する。

西原京春「現代カンボジア村落の特質と内的秩序-「大塚久雄『共同体の基礎理論』を読み直す」を手がかりにして-」

 本稿では、前近代の共同体の本質、結合と変遷の諸条件を総体として理論的にみとおした大塚の共同体論との関係でこれまであまり議論されたことのない東南アジア、とりわけカンボジアについて『『共同体の基礎理論』を読み直す』の議論から内在的に汲みとれるものを敷衍していく。同書の報告では、共同体の結合・変遷の契機を論ずるにあたって、領主による土地領有・所有の問題が重視されていた。なかでも、三品は、外部権力による直接的支配と搾取が村落形成の契機となる点を強調することにより、外生的要因を重視した。
 現代カンボジア村落では「恒常的に機能する組織」がほとんどなく、人々の間の関係性が恣意的で継続性をもたず、生産的共同行動の組織化が困難であることが、問題としてとりあげられている。本稿では、上記の議論を手がかりに、カンボジア村落の特質と問題について現状分析をすすめる。まず、同著において論点となった上級権力の村落への関わり方について注目し、さらに、その関わり方によって規定される「法」の在り方が、人々の社会的行為、および人々の社会的諸関係、ひいては村落の特質の形成にどのように反映されるのかについて、国際的な比較検討をふまえた上で、現地での事例調査をとおして考察する。
 調査は、2回の予備調査を経て、2008年2月、カンボジアの2つの農村で村の人々と村長にインタビューを実施した。その結果から、X村とY村では、政府の開発介入への期待は乏しく、政府の存在感が希薄で「国家法」が実効性をもたず、人々の間で通用する規範が支配的であることが観察された。そして、隣人間、あるいは村落内部での、いわゆる「親しい間柄」においても、個人の行動はあくまで「自己利益追求」を目指していることが自他ともに認識され、「他者、あるいは社会の利益追求」といった発想に乏しいことがうかがわれた。

207号(第52巻3号)
2010年4月
秋元英一「アメリカ大恐慌下における経済政策ビジョンをめぐるエリートと民衆の交錯」
 これまでのニューディール研究は、フランクリン・D・ローズヴェルトが政権を掌握した後に形成されたニューディール官僚機構の内部にあってさまざまな政策ビジョンを提言したエリートたちにもっぱら焦点が合わさっていた。ところが、恐慌下で大衆レベルで存在した雰囲気や憤懣を詳しく調べていくと、農場や町にいた民衆の本当の感情を捕捉できたエリートこそが民衆の代弁者としての真正のエリートとして登場したことがわかる。私はこのようなエリートのことを「民衆の側に立ったエリート」と呼んだ。経済的には、ニューディールはリフレーション的政策の混成として始まった。すなわち、金本位制離脱、40%にも及ぶドルの切り下げ、国内物価を引き上げるために各国間の通貨安定をロンドン世界経済会議で拒否したことなど。中西部の農民は猛烈にインフレーションを必要としていた。なぜなら、彼らの土地の相当部分が差し押さえられ、政府が何らかの劇的な措置をとらないかぎり、将来の展望がなかったからだ。彼ら農民の真正の代弁者は農民休日連盟の指導者、マイロ・リーノだった。経済学者アーヴィング・フィッシャーは彼の債務デフレーション理論によってローズヴェルトを説得しようとしていた。彼は部分的には説得に成功したと自分では思っていた。
 ハーバート・フーヴァーとちがって、ローズヴェルトは金本位制という神話からは早い段階で離れていたので、拡大的金融政策を採用することができた。しかしながら、ローズヴェルトはフーヴァーと同じように、均衡予算主義には固い信念を持っていた。ローズヴェルトの救済事業や農業支援は1933年以降景気回復をもたらすほど強力だったが、同時に彼は増税努力も熱心に行ったので、国民経済に対するローズヴェルトの予算の純貢献は限定されたものだった。1937-38年恐慌のあと、深刻な不況からどうやって脱出すべきかについて全国的な論争となった。農民や組織労働者はこれには参加しなかった。行政府内外の経済学者や政治家、そして業界団体の代表たちが参加した。ローズヴェルトは説得されて、1938年以降、救済事業や公共事業の大胆な復活に賛成した。ニューディール財政支出の役割を小さすぎたと断ずるのは間違いであろう。なぜなら、厳しい恐慌の経験のゆえに、個人も企業も債務清算に努力を傾注したから、政府の借入だけがその代わりになって景気を支えることができたからである。  
深澤 敦「フランスにおける1930年代の大恐慌と社会保険・家族手当」

 1930年代の大恐慌は、フランスの国家介入の歴史において決定的な転換点をなしている。とりわけ重要なのは、この国家介入が第一次大戦中のような戦時においてではなく平時になされ、従ってその大部分が第二次大戦後にも継続されたことである。 本論文は第一に、1930年代の恐慌と危機を契機とするフランスの社会経済思想の転換がどのような状況の下で進行したのかを国家介入の問題を中心として解明することを意図している。この目的のために本論文は、フランスの主要な労働組合CGTと資本主義社会の枠内での構造改革プランを提唱した「プラニスト」の見解を検討する。また、フランスの自然・社会諸科学のグランゼコールの一つである有名な「エコールポリテクニック」の卒業生を中心として組織された「X-Crise」という一種のブレーントラストの見解をも吟味する。このグループの多数派は指導経済に与していたが、自由主義の少数派でさえ1930年代末にはある種の自由主義的介入を支持するようなる。
 第二に本論文では、1930年代に初めて法律に従って実施に移された社会保険と家族手当の諸問題が解明される。とりわけ注目すべきは、1920年代に家族手当のための補償金庫(caisse de compensation)シシテムを自主的に創設した経営者自身が経済恐慌の勃発の後には、このシステムを一般化するために国家介入を求めざるを得なくなったことである。かくして、社会保険と家族手当の諸給付を通じた大衆の購買力と消費の拡充のための国家介入が実現し、第二次大戦後のフランス福祉国家の基盤が形成されていくのである。

枡田大知彦「ドイツにおける労使関係への国家介入の歴史的展開-1930年代大恐慌期を中心に-」

 本稿の課題は、ドイツにおける労使関係、とりわけ労働条件の決定過程への国家介入のあり方、その歴史的展開を検討することにある。
 第一次世界大戦後のドイツでは、全産業の労働条件が、同権的な労使の団体の自律的な交渉を通じて締結される、法的な拘束力をもつ労働協約により定められることになった。そこでは、労働条件の決定過程への国家介入が回避されること、「協約自治(Tarifautonomie)」が原則とされた。だが、「協約自治」の原則は、時期を追うごとに動揺し、1929年の世界恐慌の発生以降、労働条件の決定過程において国家が果たす役割は決定的に重要となり、労働組合は存在意義を喪失していく。ナチス期においては、ワイマール期に形成された「集団的」労使関係の一方の担い手である労働組合が解体され、ある意味ではそれにとって代わる形で、労働管理官という官吏に労働条件の決定に関する最終的な権限が与えられることになる。実際の労働条件は、労働管理官が設定した最低基準をもとに、経営において「指導者」と位置づけられた使用者により「上から」一方的に決定される場合が多くなった。労働者は自律的な利害代表組織のみならず、制度の上では、職場移動の自由、労働契約の自由等の基本的な権利を失った。ただし現実には、とりわけ1936年以降、労働者個人が労働条件の決定(向上)にかかわる場合もみられることになる。ナチス期において否定されたワイマール期の労使関係の特質としては、「強い」労働組合の存在、それを担い手とする産業レベルでの対立的な労使関係及び自律的かつ集団的な労働条件の規制等をあげることができる。こうした特質の多くは、第二次大戦後、形の上では「復活」したように思われる。
 本稿では、上記のような展開過程を、とくに労働組合の位置づけに注目しながら、ワイマール期、ナチス期、第二次大戦後という3つの時期を通して概観し、それらの間の連続、断絶の問題を考えていく上での論点・問題点を提起した。

白木沢旭児「日本における統制経済の形成と展開」

 本稿の第一の目的は、1930年代前半の統制経済が戦時期の統制経済に直接つながるものなのかを考察することである。第二の目的は、資本主義の修正の意味と資本主義の再編成の意味を明らかにすることである。
 第一の点についての結論は次の通りである。1930年代前半には、統制経済と市場における独占行為とはほぼ同じ意味だと考えられていた。ところが景気回復とともに独占行為の弊害が強く認識されるようになった。それゆえ、統制経済とは独占行為のことだという考え方は批判されるようになった。また、1930年代前半には、職能団体間対立が激化した。その理由は、工業組合法などの統制法規が中小企業にとって利用しやすかったが、大企業に対しては道が開かれていなかったからである。この問題は1940年に制定された重要産業団体法によって、ようやく解決された。
 第二の点についての結論は次の通りである。1930年代前半において、資本主義の修正は、自由放任を克服することを意味していた。これに対して1930年代後半には、低物価を目的とした企業の利潤統制が主張された。企業は、利潤の追求を目的とするべきではなく、公益の実現を目的とするべきであると考えられた。ただし、利潤統制は行われず、これを真剣に実行しようとした官僚は検挙された。統制経済論は抽象的な言葉を並べるものになった。1940年代に盛んになった統制経済論を日本主義統制経済論とよぶことにする。
 利潤統制を含む統制経済論は、戦後には受け継がれなかった。それゆえ、私は、統制経済論は戦前、戦時、戦後、それぞれにおいて断絶していたと考える。工業組合などの統制組織は、戦前から戦後まで続いているのである。戦後の職能団体、統制組織に関する研究は、今後の課題としたい。

206号(第52巻2号)
2010年1月
矢島 桂「植民地期朝鮮における「国有鉄道十二箇年計画」」
本稿の課題は,投資家層に焦点を当てて植民地期朝鮮の大規模な鉄道政策である「国有鉄道十二箇年計画」(以下「12年計画」)の経緯と実施過程を検討することで,総督府による私鉄会社の救済のメカニズムを明らかにすることにある。
本稿で取り上げる「12年計画」とは,(1)1927-38年の12年間で国鉄新規5路線(860マイル)の建設,(2)私鉄3社から5路線(210マイル)の買収,(3)国鉄既設線および私鉄買収線((2))の改良を内容とし,この予算は(1)と(3)に既定計画と合わせて12年間で3億2000万円を投じ,(2)に5年間で2600万円の交際を交付する鉄道政策であった。
総督府は私鉄買収について2つの理由を説明している。第一に,新規路線建設にともない必然的にその間に介在する私鉄路線の買収が必要となること。第二に,私鉄路線買収によって私鉄が買収資金を得ることとなり,その資金をもとに鉄道建設を進捗させ経営難を打開できること。
この「12年計画」の背景には私鉄会社の経営難が存在していた。1918〜20年に叢生した私設鉄道は設立直後から資金難に直面していたが,第一次大戦後の不況期以降,総督府の補助金により配当は維持していたものの,鉄道建設資金の調達がさらに困難となり,経営は行き詰まっていくこととなった。私鉄会社の投資家層はこうした窮状を打破するために「12年計画」の樹立を推進し,1927年以降,総督府により私鉄3社5路線が漸次買収されることとなった。総督府財政から支弁された買収資金は,私鉄未成線の建設資金に充てられ,またその一部は東洋拓殖会社に還流していた。
従来の朝鮮鉄道史研究においては,国鉄を中心として研究が行なわれ,私鉄会社に関しての研究蓄積は乏しい状況であった。「12年計画」に関しても国鉄を中心に検討されてきた結果,私鉄買収については単に国鉄の新規路線建設に伴って必要となるもの,として一般的に理解されてきた。本報告では,私鉄会社の投資家層に焦点をあて,「12年計画」での私鉄買収が私鉄会社の救済と金融機関へ資金を還流する仕組みとなっていたことを明らかにしていく。
 
坂口正彦「高度経済成長前半期における農業政策の受容形態―長野県飯田市下久堅南原(しもひさかたみなばら)集落の事例を中心に―」

 本稿の目的は,高度経済成長前半期の農村において農業政策(新農村建設計画,第1次農業構造改善事業)がいかなる形で受容されたのかを明らかにすることにある.その分析視角は,第1に,先進地域ではなく,条件不利地域を対象とした点にある.第2に,農業政策をストレートに受容するケースではなく,政策の意図を「組み替え」て導入するケース,政策の導入を拒否するケースを取り上げた点にある.
対象地域は,長野県飯田市下久堅南原集落である.旧下久堅村は急傾斜地帯に位置しており,条件不利地域とみなすことができる.それゆえ,道路整備が課題であり続け,農業政策を道路整備事業として組み換えて受容するケースや,事業導入を拒否するケースが表出した.
とくに第1次農業構造改善事業において,南原集落は事業の推進者と反対者に分かれた.飯田市の提案を受けて,推進者は,同事業を「名目」として道路を「一挙に開発」すると宣言した.その一方反対者は,事業が大規模であるために集落全員負担が過重になること,道路整備のみの導入は不可能であることを主張した.これに対する推進者の説得方法は,受益者が寄付金という形で事業費を負担し,集落全員負担を軽減したこと,道路整備に特化して事業を導入することを「誓約」したことにある.
本事例は,農業政策の意図を「組み替え」て導入するケース,政策の導入を拒否するケースは,条件不利地域において生じ易いこと,また,県は農業政策がその意図どおりに遂行されることを重視するのに対し,市町村はいかに政策を地域に適合させるかに関心を払ったことを示唆するものである.加えて,南原集落における合意形成の様態は,異なる意見を持つ集落住民どうしが議論を重ねて,集落内部の「公共性」を構築する過程を示している.南原集落と同様,条件不利地域に存立し,かつ,集落が部厚い中間層によって構成される地域において,地域における「公共性」は獲得され易く,また,すでに獲得されている可能性があるものと推定した.

橋本規之「高度成長期日本の産業政策と設備投資調整―エチレン30万トン基準再考―」

 設備投資は装置産業において経営戦略の最重要項目であり,企業の資本蓄積と産業組織の構造を規定する主要な要因となる。育成政策の対象であった高度成長期の石油化学は,資本自由化対策と国際競争力強化の観点から,1964年に通商産業省と業界の代表を中心に官民協調懇談会を設立し,74年まで新規参入と設備投資の調整を行った。
高度成長期の設備投資調整政策を扱った先行研究を概観すると,投資調整自体に視点を限定する傾向がみられる。石油化学の場合では67年に示されたエチレン30万トン基準に焦点が当てられるが,設備投資競争の促進メカニズムが十分に明らかにされているとは言いがたい。本稿では,原料面の石油政策,需要面の原料転換政策など,産業政策の分析の範囲を広げ,エチレン30万トン基準の下での過剰投資の発生メカニズムを明らかにする。
石油化学協調懇談会は,私企業間の投資調整を行政が指導・監督する条件により独禁法に容認された投資調整カルテルであった。協調懇方式による設備投資調整は法律の裏付けのない産業政策であり,政策手段として主に行政指導が用いられた。客観的ルールである30万トン基準においても,投資単位の政策的誘導と個別計画の審査という運用を通じて,外資の排除など行政指導の裁量が発揮されている。
エチレン30万トン基準の設定は,需要見通しと基準稼働率をベースにした設備枠の配分というマクロ的調整を優先する方式から,個々のコンビナートを対象としたミクロ的調整を重視する方式への移行を意味した。しかし,原料供給における共同石油系精製会社の積極的育成,誘導品需要における塩化ビニルモノマーの原料転換政策,そして短期間の輪番投資という企業間提携は,競争促進的要素として複合し,30万トン計画の個別審査というミクロ的調整過程で,過剰投資を惹起することとなった。

熊谷幸久「19世紀初頭の英国のアジア通商政策に対する地方商人及び製造業者の影響力―1812年から1813年にかけてのグラスゴー東インド協会による東インド貿易開放運動を中心に―」

   本稿の目的は、1812年から1813年にかけてのイギリス東インド会社の特許状更新に反対するグラスゴー東インド協会(Glasgow East India Association、以下GEIAと表記)のロビー活動を考察することで、ケインとホプキンズのジェントルマン資本主義論に基づく19世紀前半のアジアにおけるイギリス帝国主義の説明を再評価することである。
同協会はグラスゴーの商業及び製造業利害を代表しており、特に西インド貿易と綿工業に携わる経営者の参加が顕著であった。このような異なる経済的利害を持った人々の運動への参加は、協会のロビー活動が同市のビジネス・エリートに広く支持されていたことを示している。同時に、運動期間中に、東インド貿易の完全な自由化を犠牲にしてでも、既存の貿易の保護を要求した西インド商人の存在は、地方の利害グループが決して一枚岩ではなかったことを表している。しかしながら、このような状態が東インド貿易開放運動を組織した地方ロビイストに決定的に不利な影響を与えたとは言えない。
1812年4月、グラスゴーと他の地方都市からの合同代表団は、政府閣僚との初期の会談において、もし彼等がインドから地方港への輸入貿易が効率的で安定した関税徴収に害を与えないことを証明出来るならば,政府のこの問題に対する見解を変えることが可能であるということを悟った。それ故、彼等はこの議題を達成されるべき最重要目標と位置付け、強力に政府に対しロビー活動を行ったのである。この事例研究は、A.ウェブスターの主張した地方ロビイストの限定的な影響力と商務省の意見の重要性が、実際よりも強調され過ぎていることを示している。GEIAの記録には、地方商人と製造業者が商務省に対して、貿易開放の為に強く働き掛けを行った明らかな証拠が残っている。更に、ウェブスターはインド貿易開放の決定に関して、政府の採った戦時の経済戦略の重要性を強調したのだが、これは安価な食糧と原材料の安定供給と社会不安の解消を望む地方商人及び製造業者の要求に答える為のものであった。そして、ロード・バッキンガムシャーの発言内容と地方の商務省に対する影響力を考えると、インドからの輸入貿易に関する政府の見解の変化は、地方の利害グループが組織したロビー活動の結果だったことが明らかである。
イギリスの帝国政策に対するスコットランドの貢献に関して、GEIAはスコットランド地方の他の都市に対して運動に参加するように働き掛けを行ったが、彼等の活動はそれだけに留まらなかった。GEIAの他の地方主要都市との緊密な情報のやり取りは、彼等の全国レベルでのロビー戦略を形成するのに重要な役割を果たしたのである。

205号(第52巻1号)
2009年10月
韓載香「在日韓国人による民族系金融機関設立とその基盤:1950~60年代の全国展開を中心に」
  本稿では、在日韓国朝鮮人(在日)が設立した民族金融機関(民金)のあり方を規定した政治経済的要因と、商銀の全国展開を可能にした諸条件を明らかにする。
最初の民金の設立は、民族団体の組織的な活動の結果であった。在日の国籍が定まっていない段階では民金設立に対する方針は明確ではなく、日本政府に立場を表明させた組織的な取組は、左右合同の同和信用組合設立の原動力になった。しかし、政治的立場の異なる在日を排除するかたちで民金内に南北対立が浸透し、分裂は避けられない状態となった。政治的立場の異なったため金融サービスの差別をうけた在日を吸収するために、2つ目の民金として商銀(韓国を支持する民団系列)の設立が期待された。このように同地域に二系列の民金が全国展開した背景には、政治的な要因と経済的な要因が複合的に作用した。
 朝銀に追随して商銀を設立する過程は、必ずしも順調でなかった。在日韓国人コミュニティ内には金融機関に関する知識を持っている経済人が乏しかったし、商銀設立の期待があっても設立可能な経済基盤があったわけではなかった。また、在日全てを同質の韓国籍と認識する立場の行政から、2つの民金の認可を得ることにも困難がともなった。そうした困難を克服するためには、脆弱な民団の組織力を強化し、資金基盤としての本国からの資金援助が実現されなければならなかった。そうした課題はようやく1960年前後に解決され、その後の商銀の全国展開を可能にする条件が整った。
 以上のように在日の商銀の設立過程に注目したことによって、政治的背景のみならず、経済要因が重要であったこと、設立を可能にした諸条件が明らかになった。結果からみると、南北対立政治的背景は、同地域内に2つの系列の民金を設立させ、零細性を初期条件として与えられ、経済組織としては限界をもつ零細な経済組織を生み出した。他方で、有力な信用組合に成長する地域が存在し、二つの民金によって地域の在日の人口規模と経済状況に依存しながら金融サービスを競争的に提供する基盤になった。
 
板垣由美子「酒類販売統制機関の実態 ―1941年~1945年における資金調整―」

 本稿は,戦時期に産業・物資ごとに設立された販売統制機関の実態を明らかにするために,「大日本酒類販売株式会社」(中央会社)及び「道府県酒類販売株式会社」(地方会社)を事例として,営業補償の支払をめぐる対応を検討することを課題としている.
 酒類販売統制機関は,その設立に際して転廃業した商業者へ営業補償を支払わねばならなかった.石炭販売統制機関などでは,国民更正金庫をはじめとする金融機関から借入れを行ない,営業補償を支払ったが,酒類販売統制機関は,酒類売買で得た事業利益(酒類売買の収支差額)を用いて,段階的に営業補償を支払った.
当初は,47道府県に設立された地方会社が酒類売買で得た事業利益をもとに営業補償が支払われていたが,1943年以降は中央会社に47地方会社の事業利益の半分以上がプールされ,地方会社は中央会社によって再配分された資金で営業補償の支払を行なった. 営業補償資金が中央会社を通じて配分されるようになったのは,地方会社に営業補償の支払を委ねた結果,営業補償の支払に地域差が生じたことによる.中央会社はそれまで行なわれていた輸送費プール計算を拡大し,営業補償プール計算を調えることで,地方会社間の営業補償の支払の差を調整しようとしたのである.
 営業補償プール計算が調えられた後,地方会社間の支払格差は是正された.ただし,当該期における酒類販売統制機関は営業補償を支払うだけの十分な事業利益を獲得しておらず,営業補償の支払いは限定的であった.
 つまるところ,酒類販売統制機関は,営業補償の支払に際して直面した資金的問題を解決するために,事業利益を再配分する仕組みを調え,限定的ではあるが営業補償の支払を実現したのである.

高槻泰郎「近世日本米市場における財産権の保護」

 幕藩体制下における民事裁判機構,とりわけ金銭取引に係る裁判制度の特徴は,訴訟内容によって「相対之筋」である金公事と「急度済方申付」る本公事とを区別したことにあったと言われている.しかし,何をもって「相対之筋」とするかについては,江戸幕府の裁量に委ねられていた.江戸幕府の経済政策如何によって,法制度が変更されることがあり得た以上,法制度の変化のみならず,その背後にある江戸幕府の政策意図,そしてその変化が社会・経済にもたらした影響を総体的に把握していくことが不可欠となる.既存の法制史研究は,訴訟手続や出訴内容の差異から金公事と本公事の区別を論じている一方で,江戸幕府司法機関たる評定所,あるいは町奉行所が,いかなる政策の下で判断を行っていたのか,という点には十分な注意を払っていない.
 そこで本稿は,当時の経済的中枢である大坂米市場を対象として,江戸幕府の経済政策と,米取引を巡る訴訟を扱った大坂町奉行所の対応との関連を考察した.その結果,宝暦11(1761)年に空米切手停止令が出されて以降,幕末に至るまで,一貫して米切手所持人の財産権が保護されていたことが明らかとなった.米切手を巡る訴訟が,下級審たる米切手兼帯役・後藤縫殿助に委ねられた時期もあったとは言え,あくまでも上級審たる大坂町奉行所が背後に控えていた.江戸幕府が,江戸における金公事とは対照的に,大坂での米取引に対して強い司法を提供し続けた背景には,米切手の信用不安が,米価のみならず,米切手担保金融市場へも悪影響を及ぼすとの認識が存在した.大坂米市場が,領主米市場としてのみならず,金融市場としても隆盛を極めた背景には,米取引の安全性を担保する政策と,それに裏付けられた司法制度が存在したのである.

204号(第51巻4号)
2009年7月
池島祥文「途上国農業開発における国連機関と多国籍アグリビジネスの協同モデル―FAO産業協同プログラム(ICP)を事例に―」
  現在も解決されない飢餓・貧困問題に対して,国連は多国籍企業との協同関係の構築を重視する方向へと開発政策の舵を大きく切りつつある.だが,国連と営利企業との協同関係は今に始まったことではなく,1960〜70年代にFAO(国連食糧農業機関)により進められた産業協同プログラム(Industry Cooperative Programme: ICP)に端を発している.
途上国の農業開発に多国籍企業の経営管理体制および先端技術を導入することを目的としたICPは,FAO・途上国政府・多国籍アグリビジネスとの協同で進められ,今日の官民協同(Public-Private Partnership:PPP)の先駆的な事例となった.ICPには多くの多国籍アグリビジネスが参加し,途上国経済への「貢献」を掲げながら,新たな市場開拓に向けて事業活動を展開していった.
 しかし,多国籍企業論・国際政治経済論としても多くの示唆に富んだ事業であったにもかかわらず,ICPは研究対象とされてこなかった。本論文では,このICPに関与した各主体の利害関心とその相克に着目し,国連機関と多国籍アグリビジネスの「協同関係」の実態とその意義を実証的に明らかにすることを課題としている.そのために,トルコやナイジェリアでの農業開発を中心に,途上国における多国籍アグリビジネスの事業展開を考察する.また,プログラムを通じて,多国籍企業が国連を舞台に自らの政治的影響力を高めていく過程に着目しながら,途上国農業開発を契機とした国連機関と多国籍企業とのPPPの制度的形成過程を導出する.国連会議をめぐる各主体の錯綜した利害関係が,国連機関,国民国家,資本が織り成す国際政治経済の重層的構造を表出させるとともに,そうした主体によって実施される国連開発政策に潜在する矛盾が析出されることになる.
 
小林延人「維新期名古屋の通商政策」

 明治維新政府の通商政策については、商法司と通商司を中心に分析が進められてきた。中でも為替会社に関する研究の蓄積は厚く、現在では、近世期の「国産会所」方式を引き継いだ通商司政策は挫折し「官営工場」方式へと転換が図られたという図式が通説化している。しかし、通商会社に関する検討はこれまでの研究において十分になされたとは言いがたく、本稿では名古屋通商会社を実例として通商司政策の再考を試みた。
 維新期の名古屋において、通商政策には商法会所の系列と国産会所の系列の両者が並存した。前者は株仲間の改変・統制や商人への融資、後者は域外取引の活発化、という点に当初主眼が置かれていたが、商法司の廃止以後は国産会所による統合がなされつつあった。一方、金融政策については、商法会所と切手懸り・配符懸りによって太政官札を準備金とした地域通貨が発行され、少額貨幣不足という地域の通貨需要に応じた。
 明治4年4月に設置された名古屋通商会社は、国産会所に代わり通商政策を一手に担うこととなる。鑑札の発行と世話方の設置は近世期の鑑札制度・株仲間に基く商人統制の延長であったし、親睦講の運営は維新期の金融講を引き継ぐもので通商会社による集金力を強化した。さらに鑑札配布の代わりに回収した入社金と講掛金を商人へ貸し付けることで利益収入を得ていた。
  このように名古屋における通商政策は、地方行政と在地商人が主導し、政策的には国内流通促進と海外交易促進の二側面を包含した。「国産会所」方式から「官営工場」方式への移行という単線的な殖産興業政策推移の図式では、現実に展開される「国産会所」方式の多様性を捉えきれない。政府の通商司政策は海外交易に主眼が置かれ、地域的利害を無視したために全国的広がりを持たず、地域的利害を代弁する地域行政主体の自立性が貫徹したのであった。

木庭俊彦「太平洋戦争期における機帆船海運―九州・山口炭輸送の統制―」

  戦前期において、九州・山口で産出された石炭の多くは機帆船によって輸送されていた。この瀬戸内海における石炭輸送は、太平洋戦争期に計画化されていくが、機帆船海運に対する統制には限界が生じていた。本稿は、太平洋戦争期に決定的となった海上輸送力不足をより具体的に把握することを目的とし、九州・山口炭輸送に関する統制組織の問題認識とそれへの対応策の分析を通じて、どのような統制の限界があったのか、なぜ限界が生じたのかを明らかにした。
  1942年には、石炭の供給増大を図るため、九州・山口炭輸送に機帆船の計画的な利用が求められ、機帆船海運に対する本格的な統制が開始された。1943年以降、機帆船に対する動員が強化され、多くの機帆船が国家使用船となった。加えて、輸送力の増強のために諸種の対策が講じられた。それにもかかわらず、九州・山口炭の輸送量を増加させることはできなかった。
  機帆船による九州・山口炭の輸送計画においては、軍や工場などの専属的な機帆船の使用が隘路となっていた。他方、統制の展開過程では、国家使用という機帆船に対する動員が強化されていくなかで、さまざまな矛盾が表面化していったとみられる。それは、以下のような三つの形態であらわれた。第一に、機帆船海運業の特質によって、繰り返しの調査にもかかわらず、統制組織が船舶の動静、船腹の実態を把握できずにいた。そのため、輸送計画の策定や実行に支障が生じた。第二に、国家使用という動員が円滑にすすまなかった。第三に、国家使用となった機帆船に関しても不稼動という問題が残っていた。 応召による後継者の不在、船員・物資・燃料不足、物価高騰のなかでの相対的な低収入という状況下では、機帆船船主は計画輸送を忌避する、あるいは中古船市場の活況を背景として船を売却することを選択したのである。以上の計画輸送上における諸制約が、複合的に関連して統制の限界を引き起こしていたと考えられる。

202号(第51巻2号)
2009年1月
平 山  勉「満鉄の増資と株主の変動ー1933年増資の払込期間を中心としてー」
 本稿は、閉鎖機関関係資料における満鉄(南満州鉄道株式会社)資料にもとづいて、1933年増資をめぐる満鉄と株主の行動について実証分析を試みたものである。筆者の問題関心は、満州事変以後に経営環境が激変し、満鉄自身への評価が大きく揺れる中で、どのようにして満鉄が民間株主と一般投資家からの「増資」を達成したのかという点にある。同時に、払込期間を通じた株主の変動が持つ意義を、満鉄改組を通じて考察した。本稿が明らかしたことは、以下の4点に集約される。
 第一に、増資新株の一般公募において申込価格の分布は大きく2つに分かれ、もっとも申込株数が集中したのは最低応募価格よりも低い53.0円であった。公募実績は、満州ブームに熱狂的になるだけでなく、冷静な評価をする一般投資家の存在を明らかにしている。第二に、増資新株が出回るようになって以降、都市株主が放出する既発行株と増資新株を引受けたのは地方株主であった。地方株主の持株比率は上昇し、株主数も都市より高い増加率を示していた。払込期間を通じて、満鉄株主における地方株主の相対的地位が上昇していたのである。第三に、こうした都市株主の放出は、満州事変から増資に至るまでの満鉄への政治的介入と、それによる満鉄経営の不透明さが起因となっていた。その一方で、地方株主がそれを引受けたのは、地方銀行に対する信用不安が広まる中で、堅実な満鉄株の現物流通が安定するという、「投資のための環境」が改善されたことにあった。
 最後に、構成を大きく変えた株主は、株価回復と配当維持のために満鉄改組を要求し、それは実現するに至った。つまり、氏名・現住所・持株の種類・持株数だけが特定された数万人規模の株主の「意向」を無視できないという意味において、株主の増加と株式の分散化が進展する中でも、満鉄への「ガバナンス」が機能していたと評価できよう。
李 昌 ?「植民地朝鮮における電信政策と電信架設運動」

 本稿の目的は日韓併合から日中戦争の直前までの植民地朝鮮における電信事業の拡大について、総督府の電信政策と民間の役割に着目して考察することである。
 第一に、電信事業において総督府の財政投入が積極的に行われた時期は、殖産興業政策が活発に展開された1915年までであった。その後、財政独立計画のために電信事業への財政資金の投入が抑制され、電信施設の新設への多額の支出が再開されるのは、第一次世界大戦後の財政膨張期を待たなければならなかった。しかし、1919年の3.1万歳運動は、電信事業の方向を産業開発から治安維持へと転換させた。それゆえ、増加した電信事業費は、公衆電信網の整備に当てられず、警備通信事業が優先された。また、1930年代には満州事変にともなって、日朝満ブロック経済圏通信網の構築のために優先的に財政資金が投入された結果、引き続き公衆電信事業への財政資金投入は抑制された。
 第二に、このような状況下で1920年代以降公衆電信施設新設の中心となったのは、民間資金に依存した請願・寄付電信施設であった。財政資金による電信事業拡張が停滞する中で民間の電信需要は一層増加したことから、1918年には極度の電信滞積が起こった。かくして、1910年代末頃から電信架設運動が全国に繰り広げられた。電信架設運動は地域振興運動の一環として展開され、地元の有力者たちがそれをリードして行った。彼らは相当額を寄付することによって電信架設運動の核心的な役割を果たしており、また通信施設の運営自体にも興味を持っていた。一方、総督府は請願電信施設や寄付電信施設のような新しい通信制度を導入し、こうした民間の動きに対応した。これらの制度は成長する民間の力を生かして市場化・情報化を促すものであった。
 先行研究で描かれている植民地朝鮮の電信事業は、軍警備通信に代表される被植民地の抑圧手段であり、帝国圏通信網の中継地構築の一部である。しかし、本稿で明らかにしたように、1920年代以降は民間資金によって建設された電信施設が電信施設拡張の主軸となった。

201号(第51巻1号)
2008年10月
祖父江利衛「1950年代後半〜60年代前半における日本造船業の建造効率と国際競争ー造船実績世界一と西欧水準建造効率達成の幻影ー」
 本稿は、日本造船業の1950年代後半から1960年代前半における国際競争力を検討する。これまで、日本造船業は、第二次世界大戦後から弛まぬ建造技術向上に努め、納期の正確さで海外からの信頼を得て建造実績世界一の座を獲得した、とされている。確かに、日本は1956年に建造量で世界一となり、この座は1999年まで続いた。
 しかしながら、具体的な船舶事例における物的労働生産性を時間で計測した1 総トンあたり工数で比較すると、この当時の日本の物的労働生産性は西欧よりもはるかに高かった、と確実にいうことは出来ない。さらに、当時の日本の造船技術者も、西欧、特にスウェーデンの労働効率を羨望の眼差しで見つめていた。加えて、日本造船業が海外から大量受注は、ギリシャ系船主に限定されていた。受注が限定的だった要因は、建造技術の向上では説明できない。日本の受注は、主として新興のギリシャ系船主からであり、西欧は英国やノルウェーからの受注であった。世界各国の造船所が同一市場で受注競争に興じていたのではなく、造船市場は日本、西欧にそれぞれ分割されていた。日本のギリシャ系船主からの受注は、当時の市場構造それ自体から説明されなければならないことを意味している。
 また、この時期に、日本造船業はタンカーの大型化で西欧を凌駕していった、とも言われている。しかしながら、この議論は、造船業が受注建造であることを無視している。船舶は、船主の提示した仕様に沿って建造される。あくなき大型化を要求する発注がなされなかったので、西欧造船所は、日本のような大型化を追及する必要がなかった、という可能性を完全に否定することは出来ない。タンカーの大きさによって、どのような航路や海域を航行していたのか、この分析が必要となる。
これらの課題を本稿で解明していきたい。
今泉飛鳥「産業集積の肯定的効果と集積内工場の特徴ー明治後期の東京府における機械関連工業を対象にー」

 本稿の目的は、明治後期における東京府機械関連工業(機械、船舶車輌、器具、金属製品製造業)を対象に、集積を形成している工場群の特徴の観察を通して集積が個々の工場にもたらした効果の考察を行うことである。近年、中小零細工場が経済発展に果たした役割を肯定的に捉える研究が進んでいるが、その主体がしばしば集積を形成することを意識すると、個々の工場、ひいては経済発展に対して工場の地理的集中が与えた影響に注目する必要性が明らかとなる。こうした関心の所在から、日本の近代的経済発展の初期まで可能な限り遡り、他産業に広く波及効果を持つ機械関連工業を分析対象とする。また、1902、04、07、09年調査の『工場通覧』と1914年調査の『東京府工場統計書』といった工場名簿の記載情報を用いることで、中堅規模以下の工場の動きをも総体的に捉えることができる。なお、従来の産業集積研究には、企業の密集状態そのものを「産業集積」とする流れと、集積内での柔軟な分業ネットワークを重視する流れが併存しているが、本稿は分業ネットワークだけでなく間接的な効果をも含んだ集積の効果の重要性を念頭に置いている。
 まずUにおいて、工場名簿の観察から集積内での工場の参入、移動、存続行動を明らかにする。集積内での活発な創業や、集積地の東京中心部から周辺へという移動のパターン性を捉えたうえで、当該期に集積が形成されていた芝・京橋、本所・深川、浅草・下谷で高い存続率が見られるというデータ上の現象を示す。そのうえでVでは、上記の特徴の生じる理由について研究史を踏まえながら整理する。具体的には、集積の肯定的効果が、独立志向の高い流動的な熟練労働市場や、大工場と中小工場の間での取引関係の希薄さといった当時の企業を取り巻く環境のあり方に影響を受けながら機能し、活発な創業や高い存続率、移動パターンをもたらしたことを考察する。  

西川 邦夫「現局面における米価下落の要因について―需要構造分析の視点から―」

 我が国では戦後初めて傾向的かつ急激に米価が下落する局面を迎え,その要因を明らかにすることが重要となっている.本稿では消費者の米に対する需要の変化,及びその背景にある雇用調整の進展に注目し,統計データを駆使して90年代後半以降の米価下落の要因を明らかにする.
  まずは90年代後半から2000年代前半にかけて広範囲に行われた雇用調整の実態について,米消費の変化に関係のある部分のみ分析を行った.そこでは,戦後初めて賃金水準の長期にわたる下落と労働者数自体の減少が進行していたこと,そしてそれらが建設業・製造業・流通業・サービス業の中小企業に強く観察されたこと,それらに所属している勤労者の世帯は『家計調査』ではより収入の少ない階級であることが分かった.低収入階級ほどより雇用調整の影響を大きく受けていたのである.
  また,90年代後半以降賃金水準の低下により低収入階級ほど購入米価が下落し,高収入階級との購入米価の格差が広がっていることが分かった.低収入階級が賃金水準の低下により低米価志向を強めていることが示唆された.
 さらに,中食・外食という消費形態の拡大が米価の下落要因となっていることも明らかにされた.なぜなら,中食・外食業者のブレンド米操作を通じて消費者の低米価志向がより貫徹しやすい消費形態だからである.
 分析の結果,米価下落は農業内的な論理ではなく農外の,特に雇用調整の影響を受けた消費者ニーズの変化によって規定されていることが明らかになった.米価変動は90年代後半以降新しい段階に突入したのである.

大瀧 真俊「戦間期における軍馬資源確保と農家の対応―「国防上及経済上ノ基礎ニ立脚」の実現をめぐって―」  近代日本における産馬業の主導性は,一貫して軍需(軍馬需要)のもとにあったといえるが,戦間期という時期については検討を必要とする.同時期には軍縮によって,陸軍の産馬業に対する政治的・経済的影響力が低下していたからである.
 本稿の課題は,こうした戦間期において軍馬資源の確保がどのように行なわれていたのかを,同時期に進展していった農家経営の合理化との関連性に着目しつつ,明らかにすることである.国内の主要な馬飼養地域であった東北地方を対象とした分析を通じ,以下の2点が明らかとなった.
1)戦間期における馬政方針とは,軍馬として必要とされた「改良馬」の需要を農用馬飼養の中に創出するというものであった.軍縮により陸軍は軍馬資源の確保を自ら行なうことが不可能となったため,農用馬需要を軍需と一致させることによって,その確保を農林省に行なわせようとしたのである.
2)上記のような馬政方針を実行するため,農林技師たちは農家に対して馬利用の拡大を奨励した.それにより馬労働から得られる収入を増加させ,経営を合理化させつつ,改良馬を飼養させようとしたのである.しかしそれを実際に行なうことができたのは,大規模農家に限られていた.
 一方,小規模農家においては,経営規模が「改良馬」の能力を発揮するには狭すぎたため,上記の政策は受け入れられなかった.その代わり,小規模農家は「小格馬」を飼養することによって経営合理化を図ろうとした.「小格馬」は軍の要求には対応していなかったものの,「改良馬」よりも費用が少なくて済んだからである.しかし,こうした小規模農家の要求は実現されなかった.「小格馬」を生産するために必要となる種牡馬の利用が,法的に禁じられていたためであった.この結果,彼らは経済的合理性を欠いたまま,「改良馬」を飼養することを余儀なくされた.戦時期における軍馬供給は,こうした小規模農家たちの犠牲によって成し遂げられたのである.
200号(第50巻4号)
2008年7月
沼尻晃伸「 1930年代の農村における市街地形成と地主―橘土地区画整理組合(兵庫県川辺郡)を事例として―」

本稿は、1930年代に土地区画整理事業を実施した地主の活動を考察することを通じて、戦前日本における市街地形成の一特質を明らかにすることを課題とする。
本稿が対象とする兵庫県川辺郡立花村は、尼崎市に隣接する田園地帯であった。東海道線の新駅設置計画に伴い、在村地主が土地区画整理組合の結成を企図した。土地区画整理区域においては、2町歩以上所有する少数の地主が地区全体の約40%の土地を所有していたが、このなかで在村地主が組合結成を主導した。上層の在村地主は、集落ごとに土地区画整理に関する同意書を土地所有者から集めるとともに、技師を雇って事業の設計書を作成した。土地区画整理区域の土地を耕作する小作農民に対しては、補償金を支払うことで問題を解消した。県都市計画技師は地主側の計画に対し修正を指示したが地主は従わず、結局県も地主側の計画を認可し、1933年11月に橘土地区画整理組合が設立した。
 同組合は、農地の宅地化による地価上昇を利用して替費地を売却し、この収入で立花駅の設置や、街路・水道の敷設を行った。工事は予定通り進み、その結果地区内の居住者数は急増した。上層の在村地主は、所有地の田を埋め立てて宅地を造成しこれを貸すことで地代収入を得た。しかし、土地を貸与する際に地主が区画を細分化する場合もあった。不在地主のなかには、所有地の田の埋立てを行わないものもいた。その場合、田は戦後まで残存した。こうして、同区域には、設計図上の整然とした区画とは異なり、一方では稠密な住宅建設が進み、他方では駅前であるにもかかわらず田が散在するという、雑然とした市街地が形成した。在村地主が主導した同組合による事業は、道路や水道を敷設した点で市街地整備に貢献したが、地主に依拠した事業であったために地主の私的な土地所有・利用に対して規制をかけることができなかった。
伊沢正興「内陸開発事業における運河トラスティの成立と展開−1836年から1871年までのイリノイ・ミシガン運河−」

本稿の目的は,イリノイ州運河事業における州有運河(1836年〜1843年)と民営運河(1845年〜1871年)の対照的な経営動向を比較分析することによって,運河事業の担い手の成立条件と変遷を考察することである。
従来の運河史研究は,州の財政危機と個人企業家の急速な台頭を説明原理に据えて,自由放任な輸送開発への移行過程を論じてきた。しかしながら,公益性の高い州有運河を私企業へと委ねることに対する住民からの根強い批判は,運河の民間払下げを阻止し,州議会と海外投資家の利益を調整するのに適したトラスト型民営運河の創設を要請したのである。
大規模な運河建設に固執する余り莫大な財政赤字を抱え込んで破綻した州有運河とは対照的に,トラスト型民営運河は,経営の民間委託を通じて運河経営から議会の政治的圧力を適度に引き離すことによって効率的な事業運営を展開していく。その最たる成果が,ミシガン湖と運河を直結する建設計画を破棄して,支線運河と汲み上げポンプを併用する輸送計画を提案した土木技師ウィリアム・グッディング報告であった。グッディングの計画にそって建設された運河は,域内を縦横に通る支線運河とイリノイ川・ミシガン湖間の河川輸送の大動脈を連結することによって,シカゴ市と後背地の交易を促進し,北西部の商業中心地シカゴ市の形成・発展に貢献した。
だが,1857年恐慌とその後の不況による運河用地取得の低迷は,大型蒸気船の航行に必要な拡張工事の資金繰りを悪化させ,輸送事業の停滞へと波及した。資金難に陥った運河会社は,悪化する都市用水の解決を願うシカゴ市開発局の排水路建設計画に合意した。シカゴ市の都市基盤整備へと組み込まれたことで,支線運河の生命線である汲み上げポンプは,運河船航行に要する水流を供給する代わりに,汚水希釈用水を汲み上げるために稼動するようになっていった。だが,シカゴ市開発局への事業統合化は,運河輸送の停滞だけに留まらなかった。それは,シカゴ市と後背地との対立を激化させた。その結果,運河会社は経営上の限界を認識して州政府にその運営を委ねたのである。
渡辺千尋「1920年代フランスにおける移民労働者の組織化―移民会社(SGI)の活動を中心に―」

本稿は、移民政策史における1920年代の特質を明らかにするための準備作業として、移民労働者の募集・導入事業を展開した移民会社(la Societe Generale d’Immigration、以下SGIと略す)に着目し、その実態を分析したものである。SGIは移民労働者を必要とする鉱業や農業の経営者団体によって設立されたリクルート会社である。国家と経営者団体が構成する「混合システム」のもと、SGIはポーランドやチェコスロバキア等の東欧諸国で行われた移民労働者の募集に介入し、1930年までの間に約40万人以上の移民を導入した。したがって両大戦間期フランスが急激な外国人人口の増加を経験する背景のひとつには、SGIが実施した移民労働者の組織的な募集・導入・輸送の事業があったと考えられる。
設立当初SGIはフランス・ポーランド協定に基づいて活動していたが、行政機関とSGIの間に協調的な関係が築かれることによって、次第に両国の出入国管理を担うまでにいたった。さらにSGIは短期契約の移民労働者を輸送し、膨大な利益を享受していた一方で、当時、鉱業と農業の経営者の多くが抱えていた労働力の不安定性という問題に応じて定着を前提とする家族移民の導入も行っていく。鉱業では、パテルナリスムの対象に移民やその家族が含まれるようになり、彼らは国籍ごとに集住しながら、母国語や出身国の歴史を学ぶことが可能となったのである。農業においては、拓殖事業をSGIは展開し、とくにフランス南西部へのポーランド移民の定着を目指して、ポーランド政府との間に拓殖会社が創設される。
こうしたSGIの活動は両大戦間期の移民労働者の組織化に重要な影響を及ぼした。1920年代において国家は移民労働者の導入、管理に関してSGIに大きく依拠していたのである。このことは1920年代の移民政策の性格を市場の需要に応じる自由放任的なものにしたとともに、移民問題を複眼的な視野で検討する必要が薄れる要因となったのである。
マルク・シュペーラー/ヨッヘン・シュトレープ、雨宮昭彦/三ツ石郁夫(訳)「ナチス経済研究のパラダイムチェンジか?ドイツにおける最新の研究動向」

第三帝国が崩壊してから半世紀以上が経過したが、ナチ期の最も重要な経済発展過程に関する十分な経済学的説明はいまだに欠けている。それはこの経済過程が歴史家によってしばしば「奇跡」と命名されているからである。しかし、ドイツの経済史家のグループは、
現代経済理論と計量経済学の手法によってこの「奇跡」を脱神話化するための試みに着手している。本稿で私たちが日本の研究者に示そうとするのは、この新しい方法と研究プログラムから得られた新たな諸成果である。第2章「歪んだ経済の奇跡」では、第二次世界大戦勃発までの第三帝国におけるマクロ経済の歪んだ発展を分析する。第3章「軍需経済における『奇跡』」で示されるのは、ナチスは、一般に、強制や暴力の威嚇によってではなく、利潤指向的企業の自発的協力を確保するような十分な経済的インセンティブを与えることによって、ドイツ経済を操舵したということである。
石原俊時「福祉国家の現在と未来―『講座・福祉国家のゆくえ』をめぐって―」
Political Economy & Economic History Association.
Hongo Post Office Box 56, Bunkyo-ku, Tokyo 113-8691 JAPAN