Journal of Political Economy & Economic History

『歴史と経済』


日本語要旨

-220-229号 --210-219号 -200-209号 -193-199号
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218号(第55巻2号)
2010年7月
朴賢「朝鮮総督府の臨時資金調整法の運用および資金統制」
 本研究は、朝鮮において臨時資金調整法の施行された1937年10月から1940年までを中心に朝鮮総督府の臨時資金調整法の運営方式を実証的に検討し、同法の効果について評価を下すことを目的とする。
 日中戦争以降、朝鮮総督府は、政策優先順位の高い分野とりわけ生産力拡充計画産業と移入代替産業等に資金と物資を集中させるために、臨時資金調整法を利用して民間の投資計画に対して選別的に許認可を下した。そしてこれらの事業の進捗状況を監督することによって設備や資金の流用を封じようとした。
 だが、日本の円ブロックレベルでの物資動員計画が本格的に実施されると、資材の調達問題が生じたため総督府の許認可も制約を受けることになった。そのため総督府は企業の技術力や計画の成功可能性等を考慮して許認可を決定した。それは積極的に日本企業の投資を誘致していた従来の方法とは異なった。
 認許可の結果を見ると、資金は政策優先順位が高い分野に集中していたことがわかる。『朝鮮会社事業成績調』を用いた分析結果を見ても重要産業の企業は、非重要産業の企業に比べ法施行後の借入金の増加が大きかった。
 ただし、銀行貸付の中で同法の許認可が必要であった資金の割合が少なかったため、銀行貸付全体では許認可資金のような集中は見えなかった。非重要産業の企業が借り入れた資金も法施行前より増加していた。許認可の手続き自体を避けるため認可対象よりやや規模を小さくして新設された会社が急増し、これらの会社が全体会社数と資本金で占める割合が増加した。
 結局、臨時資金調整法は法の趣旨にしたがって施行されたものの、同法の統制効果は制限的にしか働かなかったのである。

平沢照雄「戦後日本における輸出電球工業の展開と輸出規制−1950〜60年代のクリスマス電球工業を中心として−」

 本論文は、1950年代から60年代にかけて日本の経済発展に重要な役割を果たした輸出産業の1つとして、クリスマス電球工業の展開について明らかにすることを課題とする。特に本論文では、(I)1958年まで、(II)1962年から64年まで、(III)1967年以降の3つの時期に着目している。Tの時期にはクリスマス電球のほとんどがアメリカ市場に輸出され、1950年代中頃にはアメリカの国内生産を凌駕するに至った。このため、1958年には、そうした集中豪雨的輸出による貿易摩擦を回避する目的から対米輸出自主規制が実施された。そしてそれは同時に日本の生産者による過当競争を規制することで経営の安定化をはかることも意図されていた。しかしながら、1962年から63年の時期になると輸出自主規制が必ずしも有効に機能しなかったことから、輸出業者と生産者との間で対立が生じた。そこでこの対立を解消するために、日本電球工業会および通商産業省が自主規制の改革案を提示した。しかし結局それらは受け入れられず、実現には至らなかった。これとは対照的に、1967年になると、海外の競争相手すなわちこの時期に対米輸出を急速に伸ばしつつあった発展途上国(韓国、台湾、香港)に対抗するため自主規制を撤廃するに至った。さらに、日本の競争力強化と生産者の経営安定化を目的とした構造改善案が日本クリスマス電球工業組合によって作られるが、具体化するまでには至らなかった。その結果として、日本のクリスマス電球は、1970年代初頭にはアメリカにおける市場シェアのほとんどを失うこととなり、戦後の経済成長に対する歴史的な役割を終えることになったのである。

河野裕康「1920年代半ばのヒルファディングの景気政策論とアンケート委員会」

 1920年代半ばにドイツで、社会民主党の中心的な経済思想家R.ヒルファディング(1877年-1941年)は、1925/26年恐慌に対して、不安定な保守的政治状況の下で、積極的に対応策を提起し、同時にその前提として、戦後経済の変化の実態調査に精力的に取り組んだ。だが従来彼のこうした具体的な活動を詳論した研究はほとんどなく、とりわけ彼の景気対策については、もっぱら1929年世界恐慌期が取り上げられるだけで、しかもその欠如が批判されてきた。
 彼は景気理論に当初から関心を抱き、1925/26年恐慌時に、産業部門間の不均衡や技術的後進性など原因を分析し、まず金融緩和策を提起した。そして彼は福祉国家の実現からさらに組織された資本主義の民主的管理を展望しつつ、恐慌対策として単なる減税策でなく、財政や通貨の安定にも配慮しながら、鉄道や電力、輸出信用、住宅建設など公共事業を要請した。彼はまた重工業では国際的経済政策を説き、最恵国通商条約の締結やカルテル監視局の創設を求めた。その後彼は雇用創出策の景気回復効果を確認し、併せて組織化に経済操作の可能性を見通した。彼は決して原理的に景気政策の発想がなかったのではなく、状況に応じて金融緩和や公共投資などを主張し、積極的に景気回復と雇用創出を図ろうとしたことが明らかとなった。
 同時に彼は経済政策の学術的基礎付けを図るべく、アンケート委員会の設置を求め、作業計画や法案修正、組織編成、検討課題等を提起して、理事にも就任し、まさにその設立から運営に至るまで中心的役割を演じたのである。そして彼は各小委員会や作業班で委員長及び座長などとして、自ら率先して聴取に携わり、中央銀行の景気調整機能、企業経営の公開の必要性、カルテルの利点と欠点、外債制限の弊害など多くの重要な論点を明らかにし、報告書に反映させた。彼にとって、特に中央銀行政策は景気政策でも重要な手段だったのであり、またカルテルは経済の組織化につながる中心的要因でもあったのである。かくして彼は1920年代半ばに、積極的な景気政策論の展開や、アンケート委員会を通じた戦後資本主義の構造変化の解明など、注目すべき思想的営為を示したと言える。この後新たな状況で、彼の財務相就任と世界恐慌への対応は、次の検討課題となる。

217号(第55巻1号)
2010年7月
小笠原 浩太「戦間期日本の社会事業と農家女性労働供給」
 近代日本の農業部門は総労働力の半数を擁し,非農業部門と密接に関連することで工業発展に寄与した.戦間期の農業従事者は半数が女性であり,女性就業人口に占める農業従事者は6割に及んだ.農家女性は,家事だけでなく農業・副業労働へ多就業しながら,家計の資源配分を効率化する機能を果たしていた.最近の研究では,農業労働供給における近代日本の特徴が,農業の集約化とともに女性の労働供給が増加し続けたことにあるとしている.戦間期日本の農家では,既婚女性による家事労働供給量が減少し,生産労働供給量が増加し続けた.しかしながら,女性による家事労働時間がどのような方法によって切削されたのかについては考察されてこなかった.本稿は,戦間期日本における託児所が農家女性の労働供給に与えた影響を明らかにする.
 託児所が女性労働供給に与える影響を分析するために,次の2つの方法を用いる.第一に,京都府の託児所が受託した児童数を国勢調査のそれと比較したところ,開設地域ではほとんどの育児農家が託児所を利用していたことがわかった.さらに史料からは,農家の施設需要の背景には,気象リスクに対する家計の脆弱性を緩和するために安定した労働供給を確保することができ,安価な保育料金で衛生・教育的に良質な保育を得られるという誘因が存在していたことが示唆された.次に,『農家経済調査簿』から得たパネル・データを用いて女性の労働供給関数を推定し,保育施設を考慮したユニタリー・モデルの妥当性を検討した.これら分析結果から,託児所は育児と労働のトレードオフを解消して女性の農業労働供給量を増加したことが明らかになった.
 本論文における主要な発見は,託児所が女性の育児負担を軽減し,農業・副業労働への従事を可能にしたことである.これは,農家女性の伸縮的な労働配分と労働供給の長期的増勢を説明する上で,社会事業による育児労働の外部化が重要な論拠となることを示している.そしてまた,施設保育が農家の育児や生活の観点において整合的な施設ではなかったとする,社会事業史上の通説的な見方に修正を迫るものである.
石坂 綾子「IMF14条国時代のドイツ(1952-1961年)−ヨーロッパの黒字国から資本輸出国へ−」

 本稿は,国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF)14条国時代のドイツに焦点を当て,貿易・為替の自由化が促進された結果,ドイツが資本輸出国としてどのような役割を果たしたのか,ドイツの資本輸出の実施と国内資本市場の復活との関連を明らかにする。
 IMF加盟時点でドイツの貿易構造は,すでにOEEC地域・双務協定国に対する黒字,ドル地域に対する赤字という地域パターンが顕在化していた。ドイツにとっての貿易・為替の自由化は,制限的・差別的措置の地域差[対OEEC地域,対ドル地域,双務協定国]を取り除くことが目標となった。1956年にはOEEC地域・ドル地域に対する輸入自由化率がともに90%を超え,双務協定の撤廃が進んだ。ここにドイツの貿易・為替の自由化がほぼ完了した。
 ドイツの特異性は,経常収支黒字の累積が問題視されたことにある。1950年代後半,ドイツの急速な金・ドル準備の蓄積は国際的に厳しい非難の対象となり,「黒字国の義務」(Richesse Oblige)として資本輸出を実施するように強く要請された。特にアメリカの資本輸出への要求はIMFと連動し,厳しさを増した。ドイツの資本輸出は,ドイツ自身がアメリカと同等の資本輸出国と位置づけられることへの疑念を抱えながらも,この国際的な要請を背景に促進された。ドイツへの資本輸出の要請は,短期・中期からしだいに長期ベースへと変化し,ドイツは国際復興開発銀行を通じた開発途上国援助を実施した。国際復興開発銀行へのローンや出資金マルク18%分の解除は,50年代末の国内資本市場の復活と重なり,マルク建て世銀債の発行や輸出産業,商業銀行による(国際復興開発銀行への)関与を通じて国際的に流動性を供給した。ドイツに蓄積された金・ドル準備は,このような資本輸出を通じて流動化され,再循環されたのである。

嶋 理人「1931年改正電気事業法体制の特徴と変質−京成電気軌道の東京電灯千葉区域譲受問題をめぐって−」

要旨

216号(第54巻4号)
2012年7月
大栗 行昭「明治期における土地買戻慣行の成立と展開」
 明治期,土地の売主が買主に代金を返して土地を買い戻す慣行があり,「買戻」として民法に保存された.買戻と似た田畑質についての研究は盛行をみたが,買戻しの慣行は注目されず,先行研究では「買戻しの動機は高利貸資本の流担保獲得である.質入・書入の流担保禁止規定が地券預入れ担保を導き,地券制度廃止後に買戻しとして広範に成立し,大正・昭和の不況期には農地を収奪した」という説があるにとどまる.本稿はこの学説に対する疑問から出発し,買戻しがどのような条件下に成立し,どのような歩みをたどったかを栃木県の60町歩地主・加藤家と山口県の55町歩地主・河崎家などを事例に考察した.
 明治に成立した買戻慣行には,買主の徳義を頼んで成立したものと買主の高利獲得を動機とするものがあった.前者は,流地売渡を余儀なくされた質入・書入主,あるいは現金売渡を行った売主が,近世以来の家産相続観念から買主に救済を求め,徳義を頼んで成立した.農民系譜の地主層を主な買主とするこの種の買戻しは,明治10年代後半,流担保化の激化のもとで成立の可能性を高めたが,20年代以降,徳義・救済の意義が薄れ,買主の私的土地所有意識が強まるにつれて衰退した.一方,徳義とは関係なく,貸主が高利獲得のために売渡担保を利用するのが後者で,徳義に頼る買戻しの衰退後も,家産相続観念をもつ借主の資金需要に対応して命脈を保った.買戻しは明治5年の土地売買解禁によって成立の基礎を得て,質入・書入と択一的担保ないしこれら担保の再挙として成立した.その契約は証書によったのであり,地券預入担保が転じたものではない.
 買戻慣行には,先行研究が主張したような「高利貸資本の流担保獲得を動機とし,大正・昭和の不況期には農地収奪を招いた」という動機と展開はあったと考えられる.ただし,それは2つの動機からなる慣行の歴史的展開の一面にすぎない.
北浦 貴士「両大戦間期日本の電力外債と外債発行電力会社の減価償却行動」

 本稿の目的は,1923年から1931年にかけて発行された日本の電力外債における会計に関する契約条項が,外債発行電力会社の減価償却行動に与えた影響を明らかにすることである.
東邦電力に関して,先行研究は子会社を含めず単体のみで減価償却行動を分析した結果,東邦電力が1930年5月より経営者のリーダーシップの下で積極的に減価償却を実施した点を強調した.しかし,本稿の分析の結果,東邦電力が減価償却金額を増加させる形で,遅くとも1925年11月より契約条項に基づいた積極的な減価償却を実施していたこと,また1934年5月以降,経営者のリーダーシップの下で,さらに積極的な減価償却を行うようになった点が明らかになった.
 東京電灯では,契約条項に違反する減価償却の計上不足に対して,社債引受会社が,会計プロフェッションの報告に基づいた経営介入により会計処理を修正させていた.また,1931年12月の金輸出再禁止後において,契約と実際の償却金額との関係が問題となる減価償却問題が発生した.これらの事実は,減価償却会計条項が東京電灯の減価償却会計にとって重要な意味を持っていたことを示している.
 大同電力,日本電力や信越電力においても,外債発行を契機として継続的に減価償却が実施されるようになった.
東京電灯に対する経営介入に代表される通り,社債引受会社が,外債発行電力会社による契約条項に基づく減価償却の実施状況を監視していた.そして,社債引受会社に対して判断材料を提供していたのは,会計の専門家である会計プロフェッションによる継続的な監査であった.以上の考察の結果,外債発行電力会社の減価償却行動に関して,減価償却会計条項と社債引受会社による監視を通じて,社債権者によるガバナンスが機能するようになったと結論づけることができる.

加藤 房雄「ワイマル期ドイツにおける大土地所有の苦闘−「ドーナ家」の事例と「アメリカ債」の意義−」

 東プロイセン州の「ドーナ家」とは、1127年のドイツの古文書に初めて登場する伯爵家の一つで、19世紀末期に、全所有地面積約2万ヘクタールの大世襲財産を所有した。本稿は、東エルベの大土地所有者のために始められた1930年以降の「東部救済策」(Osthilfe)に注目しつつ、ワイマル後期からナチズム初期に至る時期の「ドーナ家」の財政再建策を検討する。W. C. McNeilが指摘するとおり、1928−1930年の間、50ヘクタールに届かぬ小農場が赤字ではなかったとすれば、大農場は、巨額の損失を出していたのである。
 プロイセンの世襲財産の廃止を企図して、1920年、「強制廃止令」が施行された。この重要な事実を踏まえるなら、本稿の分析は、ベルリン・ダーレムの『プロイセン枢密文書館』が保有する世襲財産関係の原資料を主要な基礎とするものとならざるをえない。同法が「ドーナ家」に及ぼした影響を明らかにするためである。本稿では、また、プロイセン農業史に関する日本の研究史への若干の批判的提言が試みられている。

215号(第54巻3号)
大会報告・共通論題:東日本大震災・原発事故からの地域経済社会の再建をめぐって
2012年4月
小野塚 知二「趣旨説明」
要旨
岡田 知弘「大震災の被害構造と地域社会再建の課題−地域内経済循環論の視点から−」

 本論文の目的は、東日本大震災の被害構造を明らかにしたうえで、地域内経済循環論の視点から被災地の地域社会再建の課題と展望を示すことにある。
 そこで、本論文では、第一に、東日本大震災の被害構造の地域性と多様性を明らかにして、被災地を東北に限定する議論を批判する。第二に、復興をめぐる政策対抗の背後にある政治経済的要因及び被災地域内部における社会経済的要因を、戦時期の東北振興事業から現代の経済のグローバル化段階への資本主義の発展との関係で、分析する。第三に、被災者の生活再建と被災地域社会の再生をめぐる政策的課題を、津波被害が甚大であった宮城県気仙沼市を事例にとりあげ、地域内再投資力と地域内経済循環の再建が強く求められていることを示す。

冬木 勝仁「被災地の農業構造と東北農業復興の課題−宮城県を中心に−」

要旨

加瀬 和俊「家族自営漁業の震災被害と復旧政策の性格について」

 沿岸漁業は生産者の住居も仕事場もすべて沿岸域に存在しているから、大震災が引き起こした津波によって壊滅的打撃を被った。その被害は激甚であったから、岩手、宮城、福島3県の沿岸漁業者は、特別の公的援助無しには漁業活動を再開することが不可能であることが明らかであった。政府の救済策の遅れの下で多くの漁業者が再建への意思と希望を失った。そのことは、漁業を中心に形成されている地域経済が衰退することを意味した。その結果、若者は他の職業を求めて流出し、他産業に転じることが困難な中高齢者は生活保護の対象になる恐れが強かった。
 こうした状況の下で政府の救済策が決定されたが、それは従来の災害復興策よりもはるかに強力で効果のあるものであった。特に自営業者の私有財産には補助金を与えないという漁業政策上の従前の原則が変更されたことは重要である。具体的に言えば、各漁業者が正規の価格の9分の1ないし6分の1を払えば漁船・漁業関連施設を入手できるように補助金を与えることを政府が認めたことがそれである。
 こうした政策に勇気付けられて、大半の沿岸漁業者は補助金を得て自分の経営を立て直したいという希望を抱くにいたった。政府の復興策には多くの批判がなされているが、それが沿岸漁業者をして経営再建のための労働を可能にした点で、その政策は合理的であったといえる。もちろんそうした決定を政府が行った理由は、政府が漁業者に対して寛大であったからでも、親切であったからでもない。他に適切な就業機会のない沿岸漁村においては、地域住民全体が永久的に生活保護の対象に陥ってしまう可能性があり、それを政府が恐れたことがその理由であった。それゆえその政策は「福祉から労働へ」という福祉国家再編の流れの具体的事例と見ることができる。

清水 修二「福島原発災害と利益誘導システムの破綻」

    福島原発の事故は現地の経済社会に甚大な被害を長期にわたってもたらすことが確実である。地域社会は分断され、放射能汚染をめぐって被害者同士が対立する事態も生じている。今度の事故の影響で日本の原発が完全撤退に向かうかどうかは予断を許さないが、原子力施設の立地に伴う利益誘導のシステムが今後も機能するかどうかが1つの鍵を握っている。原発が地域にもたらす経済的な効果は限定的かつ一時的であり、建設の前後で地域経済構造は大きく変容し、新たな設備投資がないと持続可能性を持たない地域経済が出来上がってしまう。福島の事故のあと、原子力防災の範囲は拡大される見込みであり、関連する地方自治体の数は3倍になる。雇用や税収増といった利益を直接受けない地域や自治体も、原発の立地や稼動について発言権を持つようになる可能性が高く、利益誘導システムの効果は格段に低下するであろうと予想される。

214号(第54巻2号)
2009年10月
柳澤 治「ナチス経済体制とカルテル」
 各種の経済分野での関連企業のカルテル的な結合は、19世紀末から第二次体制にいたるヨーロッパ経済史を特徴づける重要な現象である。商品の価格を中心に市場での取引条件を協定し、相互の競争関係を制限するこの企業結合はとりわけドイツにおいて最も顕著な形で展開した。本論文はそのようなドイツのナチス期(1933-1945年)を取り上げ、全体主義的体制の下における企業結合のカルテル的形態の具体的状況、戦時経済体制への移行に伴うその変質と役割を分析し、それを通じてドイツ・ファシズムと資本主義との内的関係を明らかにすることを目的としている。
 ナチス体制においてカルテル的企業結合は、国家的な規制を受けながら、しかし「市場規制的」な団体、「価格拘束的」な団体として公式に承認され、全体主義的な経済体制の中に組み込まれた。F.ノイマンをはじめとするこれまでの研究は、1933年7月の1923年カルテル規制令改正と強制カルテル法の二立法の分析を通じてその具体的なあり方を明らかにした。しかしそのカルテルがナチス体制の下で具体的にいかなる状況におかれ、また戦時経済体制への移行の中でどのように変質し、いかに機能したかは簡単な叙述に止まり、本格的に解明されることはなかった。
 本論文は、同時代の史料にもとづいて、ナチス期のカルテルの展開状況、カルテルと国家的な企業組織である経済集団との関連、カルテル的協定価格とナチス的価格政策との関係、さらに戦時経済体制への移行に伴うその変質との機能転化について分析し、これまでの研究史の空白を何ほどか埋めようとするものである。当時の資本主義を特徴づけるカルテルとナチス体制との関連を分析する本稿は、ドイツ・ファシズムと資本主義との関係に関わる現代史の中心問題の解明のために寄与できるものと考える。
田中 光「20世紀初頭における郵便貯金と大衆貯蓄行動−静岡県三島町の事例を中心に−」

 本稿は20世紀初頭に日本の貯蓄率が個人貯蓄を基盤として上昇、安定したという統計的事実を踏まえ、その個人貯蓄がどのような仕組みに支えられ、どのような性質を持つものであったか具体的に分析することを試みるものである。日本の工業化が軌道に乗りつつあった20世紀初頭に、先行研究が明らかにしてきたように郵便貯金がちょうどその大衆化を果たしたことから、本稿はとりわけ、郵便貯金にまつわる貯蓄行動に焦点を当てた。
 先行研究は郵便貯金は政府の貯蓄奨励政策に大きく影響を受けてきた事を指摘してきた。しかし本稿が三島町を中心とした地域事例で見るところ、20世紀初頭における郵便貯金の大衆化には、政府による制度整備だけでなく、人々の側からの組織編成やその行動も大きく影響していた。三島町では小学校・工場といった近代組織から、近世来の自治組織や無尽講までを含む様々な地域組織が、それぞれの意図を持ちつつその構成員に貯蓄行動を促した。このような様々な組織の働きの中で、三島においては大衆に貯蓄行動が普及して行った。
 三島の場合に限らず、小学校や役場、郵便局といった近代的地方機関とその担い手は、中央政府の貯蓄奨励の意図を汲み取りやすい位置にあった。そしてそれらの組織はそれぞれの地域社会の中で、影響を及ぼしやすい地位にあり、小規模な地域団体や無尽などの近世来の組織にその行動の方針を示し促すことができた。また、彼等は中央政府から一方的に政策を受け止めるだけでなく、中央政府へその政策や新たな制度に関して、ある程度のフィードバックを与えることができた。
先行研究で指摘された郵便貯金の大衆化は、制度的な要因だけでなく、地域社会の中の動きにもその基盤を有していたのであり、生活現場での人々の所属する組織の再編と形成、その組織や制度内での貯蓄行動の推進が、この時期における貯蓄行動の大衆化の重要な性質の一つであった。

塩谷 昌史「19世紀前半におけるロシアの綿織物輸出とアジア商人の商業ネットワーク」

 18世紀以降、ロシアはアジア地域との貿易を促進する。中でも、ペルシア、中央アジア、清朝が主要な取引相手地域となる。しかし、実際に貿易を促進するのは、ロシア商人ではなく、各地域のアジア商人であった。ペルシアとの貿易を仲介したのはアルメニア商人であり、中央アジアとの貿易を仲介したのはブハラ商人であり、清との貿易を仲介したのは、山西商人であった。アルメニア商人、ブハラ商人、山西商人がロシアとアジア間の貿易を仲介したのは偶然ではない。アルメニア商人はペルシア商業圏を、ブハラ商人は中央アジア商業圏を、山西商人は清朝商業圏を掌握しており、アジア商人は各地で商品の流通や金融制度の担い手であったためである。近隣地域の商業ネットワークがロシアに浸透する形で、ロシアとアジア間の貿易が行われる。アジア商人はラバやラクダを中心に、年周期でキャラバンを編成し、ユーラシアの自然環境を活かして貿易を行った。
 19世紀ロシアでは、人間社会が自然環境から離陸する時期だったと考えられる。これを動力源が自然エネルギーや畜力から化石燃料へ移行する時期である、と言い換えても良い。19世紀ロシアを二期に分けるなら、19世紀前半に生産領域で蒸気機関が導入され、動力源が自然エネルギーと畜力から化石燃料に変わり、綿織物の大量生産が可能になる。19世紀後半に流通領域(鉄道と船)で蒸気機関が導入され、動力源が自然エネルギーや畜力から化石燃料に移り、大量・高速輸送が実現される。この趨勢的変化は、ロシアのアジア貿易を根本から変え、アジア商人の商業ネットワークに多大な影響を及ぼしたことは想像に難くない。本稿では、19世紀初頭から半ばまでの期間、ロシアのアジア向け綿織物輸出について流通形態に焦点を当て検討を行った。19世紀後半の流通形態における転換は、別稿で検証する。

張 楓「高度成長期家具産業における熟練労働者の調達と養成−備後府中産地を事例に−」

本文

213号(第54巻1号)
2011年10月
四谷 英理子「1911年イギリス国民保険法成立過程におけるロイド・ジョージの「強制された自助」の理念−「自助」と社会保険の架橋をめざして−」
 本稿では、イギリス国民健康保険制度の成立過程における断絶性と連続性の両面に着目して、この制度の成立においてイニシアティブをとったロイド・ジョージの政策理念を「強制された自助」という側面から検討することで、この制度がイギリスの「自助」とりわけ「集団的自助」の伝統と対峙し、それとの緊張関係の中で生まれながらも、「自助」の伝統を継承しようとしたことを明らかにするとともに、そのことが制度全体にいかなる特徴を付与したのかを描き出すことを試みた。
この制度は、「集団的自助」の限界を一つの背景として構想された。しかし、長い間疾病給付等を提供してきた伝統ある友愛組合や労働組合を無用なものとして無視することはできなかったし、 既存の団体を利用する方がコスト面でも有利であり、彼はこれらの団体を認可組合として運営の基礎に据えることを提案した。こうしてこの制度は「自助」の伝統を継承し、将来の必要に自力で備える「自助」への加入の強制という形態を採用することとなった。またその際、労・使・国の三者拠出制を採用することで、社会の全員に参加を強制し、国民全体の力で「集団的自助」の限界を克服することが目指された。
さらに彼は、この制度を通じて自助団体を拡大・強化する意図を掲げた。その際には、国家がこれらの団体の自治に一定程度介入することとなったが、これは上のような形態を採用したこの制度において、自助団体の保全を図ることにより「自助」の安定を確保するという意味で重要であった。その一方で、制度の運営を担う認可組合には一定の自治や自律性が付与され、この点では組合員の自尊心は確保された。
 一方、彼は同制度における包括性の確保と集金力に対する評価等の理由から、簡易生命保険の認可組合への参加を承認した。友愛組合のような自治的な団体にのみ運営を担わせることよりも、「自助」にできる限り多くの者を包摂することを重視したのである。
 以上のようにロイド・ジョージは、イギリスの「自助」の伝統と新たな国家による「強制」との緊張関係の中で、既存の様々な団体の伝統や特性と向かい合いながらそれらを生かしつつ、国家制度としてより強固な制度を作り上げようとしたといえるだろう。
森 良次「ドイツ・ビュルテンベルクの時計産業振興策−アメリカ互換性部品技術の導入か,それとも中小産業経営の保全か−」

 本稿は、アメリカ互換性部品技術の導入を目指すドイツ・ビュルテンベルク政府のシュバルツバルト時計産業振興策を検討するものである。
 シュバルツバルト時計産業では、アメリカとの競争は早くも1840年代末に現実のものとなり、ビュルテンベルク政府の産業振興政策の代表部である「工商業本部」は、これへの対処としてアメリカ式互換性時計部品工場の建設を推進した。
 だが、工商業本部は本来ビュルテンベルク経済に支配的な中小産業経営の保全を目的に活動する組織であり、工商業本部にとり互換性部品技術の採用は時計工の組立工化に途を開くというより、むしろ部品生産費の縮減を通じて時計工の保全を可能にするものであった。
 しかし、工商業本部の構想は、ヨーロッパ製品市場の動向と時計工の心性・労働慣行の両面において現実から乖離していたため、失敗に帰することとなった。工商業本部の支援により建設された互換性部品工場では、品質面で問題の多いアメリカ方式ではなく、多様な高品質品生産で定評のあるフランス時計産業の技術が採用された。また経営的独立性を堅持せんとする心性により時計工は互換性部品の購入を拒絶した。

前田 廉孝「明治後期商品取引所における定期取引−東京商品取引所食塩取引を中心に−」

 本稿は,明治後期における商品取引所が現物市場の価格形成へ果たした役割とその限界について,東京商品取引所(東商取)食塩定期取引の指標価格形成機能に焦点を当て,同所において食塩取引が実施された1894年10月から1905年5月までの全過程を考察した。
 取引所に関する個別具体的な研究としては近世期堂島米会所に焦点を当てた研究が盛んだが,一方で明治期以降の商品取引所に関する研究は,僅かに米穀取引所を対象とした研究が有るに過ぎない。しかし,1893年の取引所法施行によって米穀以外の商品が取引所でも取引されるようになったことは,近代的商品市場の基盤形成が進展した1890年代における特筆すべき特徴である。したがって,当該期において米穀以外の商品取引でも取引所が期待された機能を果たしえたか否かを考察することは,商品流通機構が急速にその形式を整えつつあった近代的商品市場の萌芽期を理解する上で,とりわけ我が国において資本主義経済の勃興と共に取引所制度が様々な商品の取引に導入され,一般的な取引の制度として確立していく過程を理解する上で重要であろう。
 本稿では,東京商品取引所食塩定期取引の指標価格形成機能が有した限界について2点を指摘した。それは,第1に定期取引価格は定期取引と同一銘柄の現物価格の指標価格としてしか機能しなかった点である。また第2は,食塩の需要家が内地塩より輸移入塩を多く購入するようになった1900年頃以降を中心に,指標価格形成機能は通時的に変化する不安定性を有していた点である。
 本稿が焦点を当てた東商取は,米穀以外の商品を上場する商品取引所としては最大規模を有し,しかも東商取食塩定期取引は商品取引所における食塩取引の全国的中枢を担っていた。こうした点をふまえると,本稿の考察より,明治後期商品取引所における定期取引は価格変動リスクのヘッジなどに利用しようとしても,有効に利用できた商品の種類は限定され,しかもそうした商品の取引であっても長期に安定的に商品取引所を利用することは困難であったことが指摘できよう。

212号(第53巻4号)
2011年7月
1.名前「題名」
  本文
2.名前「題名」

本文

3.名前「題名」

本文

211号(第53巻3号)
2011年4月
森 宜人「「社会都市」における失業保険の展開ー第二帝政期ドイツを事例としてー」
 本稿においては,「社会都市」(Sozialstadt)の局面におけるドイツの都市失業保険の展開過程を手がかりに,19/20世紀の転換期における「都市の公共性」のあり方を考察する.「社会都市」とは,ヨーロッパ近代都市史研究の独自の概念の1つであり,本稿では,19世紀末〜20世紀初頭の国家的社会保障が未整備な状況の中,都市が国家に先行して主体的に社会政策を展開させた局面として捉える.
ドイツにおける「社会都市」形成の原動力となったのは,19世紀末の「自治体給付行政」(kommunale Leistungsverwaltung)である.自治体給付行政は,都市行政の多様化・専門化をもたらしただけでなく,「都市の公共性」の実質的な担い手を名望家市民層から都市専門職官僚へと変化させた.また,社会民主党とその支持母体である労働者層が「都市の公共性」の一角を担うようになり,市民層による「都市の公共性」の排他的独占は動揺をきたした.そして,このような「都市の公共性」の変容に伴い,介入的政策を許容する「都市の社会的課題」とよばれる理念,都市行政の規範として定式化された.
失業保険は世紀転換期に,「社会政策上の中心的議題」(Schmuhlm,2003,S. 50)となった.その契機となったのは,自由労働組合の失業手当制度であり,また,それを土台に制度化されたガン・システムの普及であった.こうした中,ライヒ政府とラント政府が,失業保険を求める声を黙殺,ないしその責任を都市に転嫁しようとした.その一方で,ドイツ都市会議第3回総会の協議にみられるように,都市側の見解も必ずしも一枚岩となっていなかった.
 マジョリティは,社会民主勢力をあくまでも「都市の公共性」との対抗関係の中に捉え続けようとするガン・システム反対派であった.対照的に,ガン・システム肯定派は,社会民主勢力を「都市の公共性」を共に担うべき協力者として認識した上で,失業者の救済を都市の公的義務とみなしていた.このようなガン・システム肯定派の姿勢が,社会的承認の獲得を望んでいた自由労働組合の意図と合致していたために,都市失業保険の「公共性化」が可能となったのである.
馬場 哲「「生存配慮」と「社会政策的都市政策」ー19世紀末-20世紀初頭ドイツの都市公共交通を素材としてー」

 「生存配慮」は1938年にドイツの行政法学者E・フォルストホフによって提起された概念であり、19世紀以降の工業化と都市化のなかで行政、とくに都市自治体がエネルギー供給や公共交通のような住民に必要な生活財を提供する任務と責任をもつようになることを意味する。その際、「生存配慮」は困窮からは独立しており、富裕層も対象となった点で「社会扶助」と区別される。「生存配慮」の課題をまず引き受けたのは都市治体であり、中央集権化のなかでも固有のその活動領域は維持された。「社会政策的都市政策」は2002年にドイツの社会学者J・クレマーによって提起された概念であるが、救貧のような「都市社会政策」とは対照的に、すべての都市住民に対するサービスと施設の提供と直接的なコミュニケーションの機会の創出によって社会統合を果たそうとするものである。クレマーは病院、老人ホーム、オープ・スペースの建設などを重視しており、彼はそれらの施策を現代ドイツにおける「社会都市」プログラムの歴史的起源とみなしている。
 本稿は、この相互に重なり合う2つの概念を手がかりとして、すべての都市住民を対象とする有償の公共サービスの社会政策的意義を明らかにすることを目指す。考察の具体的事例は19世紀末〜20世紀初頭におけるドイツのフランクフルト・アム・マインの都市公共交通である。フランクフルトではこの時期に市街鉄道の市営化と電化が進められたが、それに伴い運賃の引下げと新たな利用層の開拓が計画された。とくに労働者用の週定期の導入は重要であった。市当局は技術的・財政的理由から当初1日1回のみ利用を認めようとしたが、市議会の特別委員会は適用範囲の一層の拡大と1日2回の利用を提案し、市当局もこれを最終的に受け入れた。この政策は有償ながら都市住民に都市公共交通の利用を容易にしようとするものであり、「生存配慮」の典型的事例とみることができる。それは、こうした都市自治体の活動が、「社会都市」から「社会国家」へ、さらにふたたび「社会都市」へという歴史の展開のなかで都市社会の統合の担い手として一定の役割を果たしつづけたことを意味する。

今井 貴子「統合と自律をめぐる相克―イギリスの社会的企業の経験から―」

 本稿は、近年、社会・経済・政治的な存在感を高めている社会的企業について、イギリスの事例を参照し、こんにちの「都市の公共性」の深化をめぐる課題と可能性を考察するうえでの一つの材料を提供することを試みた。
 社会的企業とは、従来の政府セクター、市場セクター、ヴォランタリ・セクターを横断する組織と捉えることができるが、本稿がとりわけ市民的公共性の文脈から注目するのは、社会的企業の定義には「高い自律性」が必ず含まれてきた点である。こうした社会的企業は、こんにちその規模と影響力の両面において注目すべき発展を遂げている。そうした顕著な発展の一つの重要な契機となったのが、1997年の労働党政権成立であった。同政権は、発足直後から広範な領域にわたる公共サービスの改革に着手したのだが、その過程において、社会的企業は公共サービスの供給における政府の「パートナー」と位置づけられ、政府による積極的な支援の対象となった。わけても労働党政権は、社会的排除の問題を政府として初めて政策論議の俎上に載せたのだが、この問題に取り組むうえで枢要な役割を担うことが期待された主体の一つが、都市部の荒廃地域を中心に活動を展開していた社会的企業であった。
 これらの点をふまえて、本稿では、労働党政権による公共サービス改革の一環である「福祉から就労へ」政策にかんして、政権末期に展開されたフレキシブル・ニュー・ディール(FND)の導入過程に着目し、社会的企業と政府の関係性の新たな課題と可能性を探究することを目指した。事例研究として、イギリスを代表する社会的企業であり、社会的企業として唯一「第一契約者」としてFNDを受託したワイズ・グループを取り上げた。
 ワイズ・グループが有意な事例であると考えられる理由として、第一に、同グループが「媒介的労働市場」モデルという独自の就労支援プログラムを25年以上にわたって運営してきたこと、第二に、政府の施策に先んじて、「最も支援の手が届きにくく、救済が困難な」人びとにたいする支援を行い一定の成果をおさめてきたこと、第三に、グラスゴーといった都市部において、コミュニティの住民や各セクターの組織との連携のなかで活動を展開しており、社会関係資本の構築といった側面おいても注目すべき事例であるからである。
 検証の結果、ワイズ・グループは、労働党政権下で社会的企業の地位や活動領域が積極的に擁護されたことを歓迎したが、他方において、中央政府と社会的企業の非対称な関係と自律性の減退を問題視し、とくに財政面などで政府への依存度を低めることを目指している。しかしながら、ワイズ・グループの活動が示してきたのは、営利企業や政府セクターでは十分に対応しきれないニーズにたいし、地域や個人の状況に寄り添いながらサービスを提供し得ること、独自の活動を通じて蓄積された情報やノウハウをもとに、ニードそのものを「発見」する役割をも担い得ることであった。さらには、社会的企業による地域社会の多様なアクターとの連携関係の構築をつうじて、市民的公共性を押し広げる社会的関係資本の醸成にもつながっていく可能性があることを指摘し、本稿の暫定的結論とした。

福士正博「都市という「世界」―社会的質と社会的プレカリティ概念を中心として―」

 本稿は、1990年代からヨーロッパの社会政策研究者が中心になって追究してきた社会的質(social quality)概念を通じて、社会的プレカリティと呼ばれる現象と関連づけながら、都市の公共性について考察することを課題としている。これまで公共性は主に、ハーバーマスの公共性概念を通じて考察されてきた。しかしハーバーマスのように発話のあり方を論理的に精緻化することに腐心するばかりで、その物質的条件を顧みることのない議論を強調するだけでは、この問題を克服することは難しくなっている。本稿では、ハーバーマスに対する批判を主に、アクセル・ホネットの社会的承認論とルフェーブルの空間概念にしたがって行っている。とくにルフェーブルは、空間概念が空間の表象、表象の空間、空間的実践の三つの相互作用によって構成されていることを明らかにしつつ、三者の関係の中に分離と対立を引き起こす契機が存在していることを明らかにしている。ルフェーブルの問題意識は、日常生活の視点から、近代が生産してきた生活空間のあり様を批判的に分析することであった。本稿はルフェーブルの問題意識を前提にした上で、空間としての都市が抱えている諸問題を取り上げるために、社会の主観的特徴と客観的特徴を明らかにしようとした。都市問題が社会の構造的特質に規定されて発生した問題であるとすれば、その質を高めることが課題となる。社会的質とは、「豊かさや個人の潜在能力を増進するという条件の下で、市民がコミュニティにおける社会的・経済的、文化的、法的及び政治的生活に参加する人々の能力の程度」と定義されている。人々の社会参加の能力という点から質を考えようとするのが、社会的質概念である。他方社会的プレカリティは、社会的質が不安定となり、人々が社会にうまく包摂されず、排除されてしまっている状況を指している。ここで大事なことは、社会的プレカリティを社会的質の全体に関わる反対概念としてとらえること、すなわち「社会的なるもの」の主観的、客観的、規範的条件の全てに関わる、社会の質の低下の問題としてとらえるということにある。ホームレス、失業、犯罪など、都市問題はますます深刻化している。社会的プレカリティは、社会を構成している条件のバランスが崩れた結果生じた深刻な社会的現象である。

飯塚陽介「産業合理化と国立試験研究機関―1950年代工業標準化事業における国立試験研究機関の役割―」

 本論文の第一の目的は,1950年代の日本における産業政策の遂行プロセスにおいて国立試験研究機関が果たしていた役割を明らかとすることにある.戦後日本の経済発展における産業政策の有効性については多くの研究者によって検証がなされてきた.近年では,カルダーや橋本により政策立案者としての省庁間の多様性についての指摘もなされている.しかしながら,省庁内の部門間における多様性についての研究は不足している.我々は,日本政府の政策過程における専門家たちの役割に関心を有している.特に,我々が注視しているのは,国立試験研究機関とそこで勤務する研究者たちである.当時の日本の試験研究体制において国立試験研究機関は今日よりも大きな存在であり,これらの機関についての研究の不足は問題である.本論文の第二の目的は,工業標準化と技術進歩との間のこれまで顧みられることのなかった関係性を示すことにある.
 第一に,我々は第二次大戦後における国立試験研究機関の再編について検証を加えた.GHQと商工省の一部の職員によって,国立試験研究機関の集権的な統治機構としての工業技術庁の設置が試みられた.工業技術庁の設置と競争的な研究資金の導入により,産業技術政策に関連した研究プロジェクトが誘発されることとなった.
 第二に,我々は,日本工業規格(JIS)の制定過程において技術進歩が要請される場合があったことを示した.1950年代後半になると,工業標準化に技術的な課題が生じていた.従来は主観的に評価されてきた諸特性について,JISの制定が望まれていた.しかし,精確な測定手段なしに,これらの諸特性についての客観的かつ明文化された標準を確立することは不可能であった.通産省は,この問題の解決に国立試験研究機関の動員を決断し,工業標準化と関連した研究に対して補助金が支給された
.  最後に,我々は,1950年代後半における転がり軸受の音響とスキマの標準化のプロセスについて分析を行った.日本国内の転がり軸受の需用家がこれらの諸特性についての公的な標準を望んだ時,日本国内はもとより全世界に十分に精確な測定手段は存在していなかった.機械試験所と日本国内の軸受メーカーは共同研究を実施し,この問題を解決した. これらの結果からは,国立試験研究機関がたとえ政策立案者としての役割は担わなかったとしても,戦後日本における政策過程において重要な役割を果たしていたことが示唆される.

210号(第53巻2号)
2011年1月
松家 仁「ポーランド独立に伴う旧プロイセン領ポーランドのドイツからの分離と民族問題(1918-1923)」

本論は,第一次大戦直後から1923年8月までのポーランド独立に伴うプロイセン東部の分断が境界地域の経済にもたらした影響を,地域官庁であった旧プロイセン領省関係資料(国立文書館−ポズナン所蔵)およびポズナンで刊行された日刊紙などに基づき分析する.旧プロイセン領ポーランドは1919年初,旧ロシア領および旧オーストリア領からなるポーランド共和国に,ヴィェルコポルスカ蜂起およびヴェルサイユ条約により統合された.しかしその後の新国境の確定に伴う経済的混乱が,蜂起に伴う武力衝突を原因として存在していた民族対立を,いかにして激化させたのかについて国境のポーランド側から本論は検討する.

本論はまず,民族的にポーランドとドイツの「中間の人々」である,マズール人・カシューブ人,そしてシロンスクの人々をとりあげる.これらのグループはドイツ側からは文化的にドイツ側に属すると見なされていたが,ポーランド側からは言語や習俗の類似性から自国民の一部と考えられていた.そこで彼らの居住した東西プロイセンおよびシロンスク地方の境界地域で,新国境が引き起こした経済的諸問題を一次史料に基づき検討しつつ,ポーランド新通貨の下落および公定穀物価格制度が,旧ロシア領やドイツと比較して旧プロイセン領の価格水準を極端に押し下げたこと,また両国通貨のインフレーション速度の相違や鉄道の分断,地理的条件による国境管理の困難が密貿易を促進したことを明らかにする.ついでその結果生じた粗放農業への回帰や密貿易・通貨闇取引が民族対立を煽り,さらに国籍の分離が農地改革を口実としたドイツ人からの土地収奪に濫用された経緯を提示する.最後に本論は,人為的国境による両国経済の分離に必然的に伴うこの経済的困難こそが,ポーランド側の民族結集政策を正当化し,またそれに対抗するドイツ人マイノリティ運動側の民族主義化をもたらしたことを明らかにする.

崔  在東「20世紀初頭ロシア農村社会における火事・放火と火災保険−モスクワ県を中心として−」
19世紀後半から20世紀初頭のロシアの農村社会において出火件数が10倍近くに増加した。とりわけ1900年代初めからストルィピン農業改革(Stolypin agrarian reform)期を含む第一次世界大戦直前までの間に、19世紀末の出火件数を2〜3倍超える極めて多くの火災が発生した。この時期における出火原因の中で放火が占める割合は異常に高く、平均およそ3割にまで達し、県や地域によっては5割まで達していた。
ところで、ロシア農民にとって火事は必ずしも経営に破滅的な結果をもたらすものではなく、むしろ多額の保険金を得て経営をリセットするチャンスを意味していた。というのも、モスクワ県の農民はより保険金の高い追加保険(additional insurance program)と任意保険(voluntary insurance program)そして民間の火災保険会社へ積極的に加入していき、1904年に強制基本保険(compulsory insurance program)加入者の4割、1909年に5割、1914年には6割以上が、保険対象物の時価額よりしばしば数倍にも過大評価されていた保険評価額の70〜80%を保険金として手に入れることができたからである。
ロシア農民自身は、他人にとって悪いことでさえなければ、放火でさえ恥ずべき犯罪行為とみなしていなかった。むしろ、農民経営の経済的困難の解消策、また農村社会内部のありとあらゆる利害関係の裁判や行政手続きよりはるかに迅速で安全な解決策であるとさえみなしていた。というのも、火事・放火は高額の保険金を受け取ることができただけでなく、その分配を通じて係争を円満で速やかに解決することを可能にしたからである。それに放火疑いのうち実際に刑事処罰を受ける割合は極めて低かった。 第一次世界大戦と1917年ロシア革命期に火災発生件数は激減したが、その主な理由は第一次世界大戦期の建築資材価格と賃金の高騰が保険金から得られる経済的利得を著しく減少させたからである。経営のリセットを求めていた1917年革命期の農民が1905年革命期とは違って火事・放火に対して極めて慎重であったのも同じ理由からであった。
藤木 剛康「アメリカの通商政策と中国のWTO加盟―対中関与政策とは何か―」
 ソ連の崩壊と冷戦の終焉によって対中政策の根本的な見直しを迫られたクリントン政権は、軍事と経済、民主主義の3つの領域での交渉を同時並行で進めて中国の国際社会への統合を促進する包括的関与政策を採用した。これに対し、東アジアにおける中国の軍事的台頭を警戒する共和党保守派と、中国国内の人権問題を重視する民主党リベラル派の議員、さらに多様な関心を持つ様々な利害団体は、短期的な関心への偏りや経済中心主義、国に対する宥和的な姿勢、安全保障面での対応の不足といった問題点を指摘し、政権の対中政策を批判した。このように、クリントン政権の対中政策は争点の拡散や国内政治の影響の増大により、一貫性を欠いた場当たり的なものであったと低く評価されることが多い。
 そこで、本稿では、包括的関与政策の最大の成果とされる中国のWTO加盟を認めた1999年の米中二国間合意と、合意の前提条件とされた対中恒久最恵国待遇供与(PNTR)法案の成立に至るプロセスを、以下の2つの側面から分析する。第一の側面は、対中関与政策の対外的側面、すなわちアメリカと中国の政府間交渉である。この側面では、いかにして中国を国際社会に取り込み、民主化・市場経済化を前進させるのかがアメリカにとっての課題となる。第二に、関与政策の対内的側面、すなわちクリントン政権と連邦議会との駆け引きと、ビジネス界を中心とした経済的利害の政策過程への関わりである。ここでは、多様な争点の中での経済的利害の位置づけと、議会の多様な利害関心がいかにして整合的な政策にまとめられたのかを検討する。とりわけ、1995年以降の議会は上下両院とも共和党が多数派を占めており、政権の政策遂行能力を大きく牽制することもできた。以上の分析枠組に基づき、数多くの批判にもかかわらず、クリントン政権の対中政策の枠組は一貫しており、さらに、議会共和党の主流派と基本的なスタンスは一致していたことを明らかにしたい。
兒玉州平「日本セメント産業の「満州国」進出」
 本稿の目的は,日本セメント産業の満州国への直接投資を検討することにある. 1920年代後半には,日本セメント産業は激しい企業間競争に直面し,多くの企業の経営が悪化していた.そのため,カルテルであるセメント連合会が組織され,価格・生産量・販売量が統制されるに至った.
 しかし,こうした自治的統制にも関わらず,需要をはるかに上回る規模で設備投資が行われたため,セメント産業をめぐる環境はますます悪化した.これには,セメント連合会の統制方法が大きく影響していた.まず,第一に,連合会は,生産能力に応じて生産量・販売量の統制を行っていた.続いて,連合会は,日本を8つのブロックに分割し,ブロックごとで価格・生産・販売を統制する手法をとっていた.この結果,主要なブロックに生産拠点をもたない企業は,きわめて不利な立場におかれることとなった.業績を拡大するためには,生産能力を拡大し,拠点を増やす必要があったのである.このように,統制自体が新たな設備投資競争を惹起していたのである.
 このため,1931年制定の重要産業統制法の適用よって,セメント産業においては設備の新増設が中止されることになった.しかし,これは一方ではセメント産業における主要な競争手段を奪うことを意味していた.ここでセメント企業が注目したのが,満州国市場である.満州国市場は,インフラ整備による需要増大が見込まれており,しかも重要産業統制法の適用外でもあった.この結果,今度は満州国を舞台に,競争が展開されることになったのである. 日本においては,連合会に所属する企業と,アウトサイダーである小野田セメント株式会社との間で競争が展開されたが,この競争関係は,満州国にまで拡大されることになった.小野田と連合会系企業は,次々に工場建設を行ったのである.小野田は鞍山と泉頭に工場を新設し,連合会系企業は,大同セメント株式会社を設立した.1935年に,満州国政府が工場新設を禁止すると,今度は,既存未稼働の満州セメント株式会社や,哈爾賓セメント株式会社のような企業の買収まで行われた.連合会系企業は満州セメントを買収し,小野田は哈爾賓セメントを買収したのである. この結果,満州国においては,日本を上回る激甚な競争が展開されることとなった.このため,最終的には,日本と満州国とを一括してコントロールする新たな統制手法が試みられたのである.
Political Economy & Economic History Association.
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