Political Economy & Economic History Society

政治経済学・経済史学会


春季総合研究会
Spring Meeting

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日  時 2008年6月28日(土)、13:30〜17:30 (終了)
会  場 東京大学大学院経済学研究科棟 地下第一教室(アクセスマップ)
テーマ 「自由と公共性―介入的自由主義の時代とその思想的起点―」
問題提起 「自由と公共性」小野塚知二(東京大学)
報告者と論 題 1.「社会的連帯(solidarite sociale)と自由」廣田明(法政大学)
2.「ニュー・リベラリズムにおける『社会的なるもの』」高田実(九州国際大学)
3.「社会的包摂の系譜と自由観念の転換」田中拓道(新潟大学)
コメント 1.「農業分野での介入・保護とその性質変化」古内博行(千葉大学)
2.「自由と公共性に関する日本的メンタリティ」名和田是彦(法政大学)
3.「企業・市民の自由と『スーパーキャピタリズム』」秋元英一(帝京平成大学)
司  会 浅井良夫(成城大学)、石原俊時(東京大学)
注  意 プログラムのダウンロード (PDF 101kb)
ダウンロードした報告原稿等を著者に無断で引用することを禁止します。
趣  旨  公共性についてはこれまで多くの場合、その内包に即して、公的性格、共同的(利害共有の)性格、および開放的性格が論じられてきた。しかし、公共性の意味が、自由な市民諸個人の間に成り立つ何かであれ、あるいは、より濃厚な秩序のもとへ編成された状態であれ、それは関係性や組織性の概念であって、自由との緊張や調和という問題は公共性の裏に常に存在してきた。殊に近現代のヨーロッパでは、個人の私的領域を国家や団体の制約から解放するという原則が確認され、個人の意思自治や行為の自由、あるいは自己決定・自己責任という規範が、実態を完全に規定していたとはいえないとしても、少なくとも法や諸制度の基盤には定着していたから、公共性と自由との緊張・調和という問題は、少なくともある時期にはとりわけ明晰に露呈していた。近代(19世紀的な公序)から現代(20世紀的な公序)への変化、あるいは古典的自由主義から介入的自由主義への転換の時期がそれに当たる。
 この研究会ではまず、自由の2通りの制約(多数の利益ための制約、当人の利益のための制約)がかつて19世紀末〜20世紀初頭の世紀転換期にいかに正当化され、政策、制度、運動として定着し、現在に至っているのかを思想史の問題として検討する。第1報告と第2報告はは、自由とその制約が問われた西欧の社会政策・福祉国家の形成過程に作用し、そこに表現された思想を、世紀転換期のイギリスとフランスの社会的文脈に即して跡付け、第3報告は、現在ヨーロッパで模索されている「社会的包摂」がその長い問題史の中のどこに位置付けられるのか考察する。3つのコメントはいわば副報告として、自由と公共性の関連について時期と領域をやや拡張して検討する。第1は、社会政策と並んで現代の介入・保護の巨大な領域である農業政策における介入の正当化論、第2は、自由主義の中に介入・保護をうまく組み込めなかったように見える日本的文脈における自由と公共性の関係、第3は、2つの新自由主義(介入的なNew Liberalism、古典的なNeo Liberalism)を経験してきた欧米に関する新自由主義史研究を踏まえて、「自由と公共性」問題の現在を、それぞれ検討する。
 この研究会が直接の対象として論じようとしているのは本質的に過去の思想であるが、その関心の一部はいまに、すなわち、もう1つの新自由主義(Neo Liberalism)の支持基盤と、現在の政策課題としての社会的包摂とに向けられている。近代の市場社会が市場のみによって万全に調整されたわけでなく、地域社会、家、企業や職業世界に成立するさまざま共同性によって支えられ担保されてきたことはよく知られている。介入的自由主義はこうした隠し資産の機能が市場社会に発生するさまざまな失敗を担保するには不充分な機能しか果たし得ていないことが判明した19世紀末以降に登場するとともに、地域、家、企業などを介入的・保護的な秩序のなかに再編した。しかし、いまや、現代の福祉国家のような介入・保護の制度もこれらの隠し資産も衰退を露わにしている。この衰退がネオ・リベラリズムの伸張との関係で理解されていることに表されているように、20世紀末以降の現在は自由と公共性の緊張・調和の問題が再び露呈している時期である。ネオ・リベラリズムの伸張はグローバリズムと組み合わせて議論されることが多いが、それは決してグローバルな資本の都合だけで力を得たのではなく、介入的自由主義への広範な忌避感と自己選択の渇望こそがネオ・リベラリズムの基盤を形成している。公序(public order)あるいは社会秩序(social order)の変化はその大衆的な共鳴板とともにとらえられなければならないのである。現代的な公共性が素朴な「自由」(「自己選択・自己責任」)の名において浸食されているのだとするなら、社会的再包摂の試みは素朴な「自由」を静かに浸食する危険性を免れていない。こうした状況を自由主義と現代的公共性との対立的性格という相のみでとらえるのではなく、介入的自由主義のありえた可能性と限界とに注目しつつ理解してみようというのが、この研究会の今日的な狙いである。
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